Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.5.23

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大塩の乱関係論文集目次


「未遂既遂の米騒動」

その12

三田村鳶魚

『お江戸の話』雄山閣出版 1924 所収

◇禁転載◇


七年掛りの暴動 (2)

思えば天明元年の九月十五日神田明神の祭礼当日に、湯島一丁日で町同心(今日の巡査)が民衆のために負傷し、三河町でも同心が殴打される、其の他にも町同心御小人目付との間に大喧嘩があつた、

同七年四月十五日将軍宣下の大礼使松平讃岐守が美々しい行列で京都へ出発した時も、通町から品川までの間で、見物に出た群衆が幾十ケ所で喧嘩を始めて、沿道を混雑させた、此の頃市民は有司に対して不穏な状態を好む、幕閣の首斑たる田沼主殿頭をさへ憚らずに、其の摘子の葬儀を凌辱するのだから、其の他に対しても遠慮なしな事をするのも怪しむには足らぬ、

五年は最高六斗六升、最低八斗二升五合で何事もなかつたが、六年の七月十四日から十八日に続いた秋霖で浅草川が氾濫した、両国橋の西広小路へ御救小屋を建てゝ被害民を収容し、握り飯の施行もした、堺町・葺屋町の芝居茶屋へ救恤米を渡し、芝居小屋の内へ大竈を拵へて炊き出しをさせ、馬喰町四丁目の小屋へは、郊外の被害民数千人を納れて、毎人米三合銭五文を与えた、

水害は江戸のみでなく、関東一帯であつたから、忽ち米価は五斗七升を唱え、十二月には三斗八升になつた。

此の年九月八日十代将軍家治が薨(がう)ぜられて、廿七日に田沼主殿頭が辞職して、さしもの田沼内閣も倒れたが、此の時に田沼の囲米が遠州相良に五百八十五万俵、奥州小名浜に百四十二万俵、越後に六十万三千俵、長崎丸山に三十万五千俵、大阪島の内に二十五万俵、江戸に十二万俵と、油の買置きが二百十八万五十三樽あつたといふ評判が伝つた。

事実の有無は慥に断定されないが、高松藩の老職木村黙老が記録して置いたのを見ると、田沼の手が米穀に触れて居たことは、誰も信じたらしい、然らば唯だ数量だけの問題であらう、彼の内秘の報告といふものを悉くは採用されないが、全く形跡のないものとも思はれまい。

田沼氏は外交財政に有数の手腕のある江戸時代に稀有の政冶家ではあつたけれども、民衆から奸商と同一視さるべき理由もあつたらう。

例によつて占買占売を禁じながら、幕閣の首班たる者が事実の有無は兎も角、そうした射利行為をして居ると信ぜられては、民衆の怒を避けられるものではない。

其の上に此の年十二月に幕府が救恤のために買上米をした其の金額の内三万余両を御勘定組頭土山宗治郎及び買付方町人が瞞着したのが露顕して、獄門やら死罪やら多数の罪人を出した、これでは官府に対して民衆が反抗する筈である。

天明七年の暴動は元年からの持越しであつて、五年が無事に経つて居ても、中断されたのではない、幕閣も下僚も早くから民衆に対して背信行為をして居たのである。

暴動といふからには制節があらう訳もない、しかし田沼内閣が民怨を買ふべき理由は明白である、単に米価妄進が市民の生活を圧迫したのみではない、更に暴動の跡を見れば、打壊にも頗る諒解がある。

我等は天保には誘導されても暴発しなかつたのを知つて居る、暴動は流行でもなければ、突発でもない、米価よりも憤怨の方から発生するらしい。

 此の年の六月八日から代官伊奈半左衛門が米穀運送司になつて、二十万両の資金で両に二斗の米を買ひ上げて、芝麹町深川浅草の四ケ所で四斗の割合で廉売をした、第二回第三回と、孰れも五日の食料を人別に照合して各町人に渡し、七月に入つて諸国から廻米があるようになつて、天明度の米騒動は鎮静した。

一体銀相場の差を生じて上方からの廻米が杜絶した処へ、関東東北の不作凶作なのに乗じて、奸商が相場を吊つた、田沼内閣は自身が占買の疑ひを受けたのみか、運上政策を執つて居た為めに、町人を厳重に取り締ることが出来なかつた。


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