Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.28

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大塩の乱関係論文集目次


「未遂既遂の米騒動」

その4

三田村鳶魚

『お江戸の話』雄山閣出版 1924 所収

◇禁転載◇


天保度の饑饉

 天保三年は豊作で、米価は一両に八斗八升三合三勺を最高とし、九斗三升八合を最低とした、

四年六月廿五日、奥羽の大洪水から同地方は饑饉になつた、八月朔日に関東一円に大風雨があつた、九月十三日より廿七日まで、播州に暴動が起つた、江戸の米価は十月の中旬に五斗二升五合八勺になり、大阪町奉行の干渉が始つた、買占めを止め廻米を勧める、

五年の二月には 奸商の壟断が目立つて来たから、関東一帯の村々に就いて持米の調査をして、不相当な儲蔵を禁じた、一月十三日には五斗一升と撥ねたが、十月二十三日には七斗二升六合六勺まで引戻した、此の年は幸に北国を除くの外は豊作であつた。

六年は去冬から二月へ掛けて淫霖であつたので、在米払底の為に、江戸の米価は十月に六斗三升五合となつて、大阪町奉行は堂鳥市場に対して糶買(じゆつばい)はならぬ、取引を穏当にせよと警告した。

七年は天候不良で、七月に江戸の小売は百文に五合から四合(両に二斗六升六合四勺)と飛び上つた、幕府が酒造の石数を制限し、諸大名の廻米を誘導して居る八月の廿四日に、甲州郡内に暴動が発生した、これは八代山梨巨摩の三郡で占買して、都留郡への給米がなかつた為である。十月には江戸の新米相場が三斗二升八合(百文に四合九勺強)という狂騰を見せ、十二月になつて堂島相場は、百三十三匁六分(一両に四斗三合強)といふ、享保以来聞いたことのない直段を唱へたが、自然と売買が絶えて、体止状態に陥つた、本年の作柄は、全国を平均して四割二分四厘の収穫で、前年の不作の為めに喰込が一割二分ある、差引いて三割四分の現米になる、それを単純に六割九分六厘の不足米と見て、文政度平作の平均十月相場六十四匁八分(両に九斗二升七合強)から、堂島相場を眺めると十割六分強の高率にある。

八年二月に入つては江戸にて二斗六升二合(百文に四合四勺七夕(せき)強の割)となり、大阪の五月相場は二百十六匁(二斗七升七合強替へ)になつて、二十三割三分二厘の高率に上つた。

大体が凶作なのであるから、米価の狂騰は必至の数とも思はれるが、滅収率と狂騰率との莫大なる懸隔に対して潜心せざるを得ぬ、塗に饑ある江戸が、幸に乱動を免れたのは、更に大に考慮を要する、寺内内閣が云ふやうに、果して騒擾が流行性のものならば、交通が不便であつた昔でも、時間の差はあるにしても、江戸へ伝染すべき筈である。

同じ事情の下にあつた天明度には、江戸大阪共に爆発し、天保度には大阪のみ騒乱し、二者の動静は前後相異つて居る。米価の狂騰は何の事情よりするも、民生に著しき窮迫を与える、其の度合は凶作に起因しても、通貨膨張等の理由に依つても、苦痛を受ける上には同一であるが、機会に乗じて商人どもが、その間に市利を壟断しようとする事は、已に苦痛を忍んでいる民心を激せしめる。情誼には水火を辞せず、義理には身命を惜しまぬ場合が尠くない、然るを改治家たる者が民心を憤激させて、聖代に背き奉るとは何事だ、特に官職は個々の功名心を満足させるためにあるのではない、衣食の資を得る為めに得るのでもない、取扱ふ大小の政務は悉く王事である、忠義の心が存するならば、労逸を比べ褒貶を較べる迄もあるまい。

穏当らしく聞えた農政課長副島千八とやらいふ人の言葉に、

というのに同情せぬでもないが、近三百年来の大問題、江戸の政治家が一人として苦労しない者のない米価である、相場の上下に暴の字を附ける時には、何時でも幾度でも調節の必要があるのに、今更のような口気を洩すのは、当面の問題に対して自覚のない証拠である。弱将の下に強兵は居まい、それに調節、米価だけさへ御覧の通りであるのに、その上を往つた民心融和などは、話すのが野暮だらう。

けれども天明八年の話に、京都町奉行池田筑後守が暴利を図る米商人の所為を怒つて、米買ひ奴に身を窶(やつ)して出掛け、奸賈(かんこ)が俯いて舛を廻す処を、抜打ちに斬つた、これが為めに町人どもの胆玉が潰れて米価が急に下落した、

江戸の町奉行初鹿野(はじかの)河内守が、囲米禁止令を犯した三人組の米商を呼び出すと、三人は辣(すく)み上つたが、拠(よんどころ)なく出頭した、処で御奉行は銀一枚づゝの褒美を与えて、其方共は能く囲米をいたし、向後益々高価に相成つた時分に下直に売出す心得であらう、尚ほ左様の心得ある者あらば申出よと達した、三人のみならず米商等が感動して大いに売出したので、救恤の稗補になつた、場合次第に誰も人間相応の働きはするものである。仲小路さんも、田尻さんも、御人体相応な訳であらう。


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