Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.4.11

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「未遂既遂の米騒動」

その6

三田村鳶魚

『お江戸の話』雄山閣出版 1924 所収

◇禁転載◇


高く払ひませう玉落し (2)

此の佐久間町の御救小屋は最初百日間で閉鎖する予定だつたとも聞くが、小屋の中 に、

という一紙を貼付した。小屋へ入れた者には毎日商売資本四百文を渡し、日々の利得から五十文宛を積立させた、それで一人一日米三合を与えた。

翌年七月には、品川板橋千住内藤新宿へも御救小屋が増設され、十一月まで継続した。同時に米殻融通の策として、問屋筋が保管する預米に干渉して、売立てを促し、上方地廻を問はず、何人も米の売買を為し、問屋仲買の占買占売を破らせる途を開け、諸大名家中の用米は国許より廻送し、江戸で買い入れるのを遠慮せよと命じた。

諸大名は幕命によつて、十一月に各城付米の中を、二万七千七十七石を江戸へ回送した。当時の江戸の人口は約八十万と見倣(みな)すべく、御小屋給米の率を以て積れば、一日に二千五百石が消費される勘定であるから、この回米で十一日半弱を支へられる、

単に此の影響とのみも云はれまいが、本年正三月(正月?)は六斗二升なのが、二月即ち回米のあつた月は、三升になつた。十二月には米価引下の為めに銭相場に干渉し、何程買い上げたか知らないけれども、一両に六貫六百六十五文の銭が、十二月の半ばから、八年の三月まで五貫八百五十文に騰貴した、即ち一割四分強高くなつたのである。当時大工の労銀は、十日間に二分三朱七分五厘であつた、金銀で請取つて銭で物を貰(買?)ふ、この階級の人達は、一両に就いて八百十五文の利益がある。同じく百文に二合五勺の米を買ふにしても、銭相場の騰貴のために、一割四分安の三勺五才だけ安くなつた訳である、江戸の銭相場引上げは政策であるから、各地の両替屋を強制して中央の銭価に従はせた。それと共に諸大名の発行紙幣をも拘束した、しかし七月十七日に、五両判小判一分判、十二月二十一日に一分銀等の新貨幣を発行したのは政策の矛盾で、大いに難詰すべき次第である。

 八年二月、大名の城付米三万千八百十四石を廻漕し、三月になつて浅草倉廩から二万俵を給し、御救小屋に収容した細民の本貫送還を行ひ、四月朔目から御趣意米と称して百文に四合(銭相場六貫六百文として二斗六升四合)の割で、玄米を市中の春舂屋(舂米屋?)(つきごめや)どもに売り出させた、一人一日分二合宛を限つて売渡す、名主の人数証明書を持て買ひに往く、当局者は米の消費を節制するために、雑(かて)を加へた飯を食ふべきことを命じた、『カテ喰はぬ御触をそむくものあらば、めしとつて来よ、じきろう(直牢と食籠との音通)に入る』という狂歌も、先刻出来て居る。

この時の白米相場は、百文に二合五勺即ち一斗六升五合であつた。本月江戸市中に救済を必要とする員数を、三十八万二百九十八人と計上したのは、市民を五十五万人と概算された際であるから、一般困憊の程度が如何に甚しかつたかゞ知れよう。


「未遂既遂の米騒動」目次/その5/その7

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ