Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.4.25

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大塩の乱関係論文集目次


「未遂既遂の米騒動」

その8

三田村鳶魚

『お江戸の話』雄山閣出版 1924 所収

◇禁転載◇


独夫の叫び

 一体堂島市場というものは、米の標準価格を示すため出来たのではない、享保度に米価が安くて困つた時に相場を引立てる為めに設置されたものである。米穀取引所は如何にも売るより買ふ方の機関なのだから、相場の安い時には無事だけれども、高い時には民怨を誘うものになるのも道理ではないか。堂島相場禁止を論じた中井積善が『豊凶を脇にし、実米とは判然別様のことなり』 と指摘したのは、例の儒者の偏固から来たとのみも云はれまい。

 天明七年五月十九日の朝、大門通(長谷川町富沢町の間)の米屋ヘ、一人の大工が銭三百文持つて米を買ひに来た、此の米屋の店頭には何時か、当日何時より何時まで白米廉売の札が貼付してあつた、米屋の方では覚えがないことだから張札を発見すると、直ぐに撤去して了まつたが、買ひ人の方では張札をして居ながら、廉売しないとは不都合だと、忽ち喧嘩になつて、彼の大工体の男は店の者に殴打されて、スゴ\/帰つて往つた。それが夕刻になると五十人計りの人数で、彼の大工体の男と共に遣つて来て、是非安い米を買うといふ、店の者が腕力で追ひ払はうとすると、大勢が家内へ闖入して亭主を撲殺し、家財器具を破壊して、ドツト引き揚げて了つた、同時に永代橋際の米屋も張札をされて、全く同一な順序で店を叩き潰された。

廿日の朝赤坂門外の米屋を殻し、南伝馬町三丁自の米穀問屋万屋佐兵衛の家を潰し、夜になつて赤坂火消屋敷伊勢屋茂兵衛、表伝馬町数ケ所、一ツ木伊勢屋甚兵衛、松屋、丸屋、赤坂田町二軒、四丁目三軒、新道新店二軒、鈴振稲荷前一軒を襲撃した。

廿一日には、伊勢町小網町小船町鎌倉河岸下谷浅草小石川の米屋、問屋小売屋を嫌はざるのみか、酒屋質店をも打壊した。鎮撫の為めに曲淵甲斐守山村信濃守の両町奉行が、与力・同心を率ゐて出張に及んだが、群衆は却つて町奉行の同勢に対して悪口する、この夜から廿二日の暁に掛けて山の手の被害が多かつた。

麹町はなぶざ町の加納屋伝六、四丁目裏通りの山田屋金蔵、五丁目の井桁屋文蔵、六丁目の井桁屋源蔵、七丁目の伊勢屋仁兵衛、八丁目の伊勢屋吉右衛門、丹波屋平兵衛、酒井屋覚右衛門、加納屋次郎兵衛、九丁目の遠州屋仁兵衛、二丁目の松屋七兵衛、近 江屋治助、伊勢屋次郎兵衛、十一丁目の松屋清兵衛、十二丁目の伊勢屋吉兵衛、十三丁目の尾張屋甚兵衛、山田屋又兵衛、三丁目の和泉屋又兵衛を破壊し、四谷通りから淀橋の水車に至る迄の間の米屋を残らず襲撃した。群衆は市ケ谷田町から火の番町、牛込揚場通りを荒し、築土伝通院通りの豊島屋茂兵衛方の御用提燈が出してある店先では、一斉に拍手したのみで乱暴はせずに水道町・御箪笥町の米屋を潰した、また角筈千住小塚原方面は、廿一二日に掛けて荒されだが、本郷は加州家の同勢で警護したから被害がなかつた。廿三四日までも鎮静せず、市中の各商家は一同戸を閉じて居た。この被害商家の数は八千余と聞えたが、廿五日になつて漸く各町とも店を開けた。


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