Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.9.12

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大塩の乱関係論文集目次


「天満水滸伝」

その11

三田村鳶魚

『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収

◇禁転載◇


水戸家との関係

 暴発の翌月、代官江川太郎左衛門から、箱根と三島の間に塚原新田地内の一里塚の傍の林中で、「大久保脇坂両閣老家来中」と書いた平八郎の白木状箱の壊れたのを発見した。そして平八郎が閣老と水戸殿と林大学頭殿とへ宛てた書状が散乱しておつたといつて届出た、届書に添えた目録には、

一 諸書物目録           一通 一 水戸殿御用人宛大塩平八郎より  一封    右は雨露に封目放れ有之 一 御老中方宛右同人より      一封    右同断 一 書状類             十一通 一 証文並裏付類          二十八通三冊 一 諸書物帳面類          九冊 一 掛物              一幅    右は荷物切解逃去候無宿清歳差押取上分    右諸書物入白木箱一ツ

とある。之に就いて幸田氏は、文中の証文類帳面類の文字は頗る注意を牽く、或は平八郎が挙兵に際し、林家御用金に関する一切の書類を取纏めて返送したのでは無からうか、甲子夜話三編によると、閣老宛の書状は、他事で時政の得失を議し、林家宛の書状は、自筆で用金の収支と自己の陳状とであったとあるが、水戸殿用人宛のものは何であつたか、一言もそれに及んで居らぬ、と云はれた。

平八郎は弔民誅君の挙に際し、閣老に対して時政を論ずる上書をするとは何事ぞ、予盾とも撞着とも云ひやうがない。偖何故に平八郎の出した状箱が、遺棄されたか、梅匪凡には、暴発前に一個の状箱を飛脚屋山田八右衛門に託したことを、暴発後に八右衛門から訴へ出でた、町奉行所では直ちに取戻方を命じた、この伝令は宿次であつたから、三度飛脚よりも先へ江戸へ著いた、それから未だ途中にある山田屋の宰領定五郎へ逆送の事を通じた、通知によつて定五郎は荷物の中から状箱を取出し、無宿の清蔵を以て箱根まで継ぎ登せた処が、此の清蔵が盗心を発して、状箱を破壊し、金にする積りの所が、書状が帳面ばかりであつたので捨て逃げたのである、清歳が盗心を起さなければ、状箱は跡部山城守の手に入るのであつたのに、彼が遺棄した為めに、平八郎の書面は江川の手を経て閣老が一見することゝなつたといふ。

 閣老へ宛てた書状は、平八が不決定を証し、林家への書類は調金の事実を慥める、水戸殿への書面は甲子夜話にも記載がない、是は何としたものか。梅匪凡に白水筆記の文を引いて「水戸相公、国の饑飢を憂ひ給ひて、其段川瀬七郎左衛門(勘定奉行)、幡崎鼎(蘭学者)して浪華に至り、米一万五千俵を買取て国に致さしめんと取計ける、此川瀬は大塩に知己なるを以て其事を謀りけるが、大塩かひ\゛/しく計ひ、且世上之人気未穏、宜く甲冑大砲抔も用意有べしとて、五艘の船に二艘は米穀及武器を積入候が、其の二艘之船は行方不知成たり、彼が謀事にて奪ひしならん、三艘は房州へ著岸せしとぞ。

といふので、水戸相公とは斉昭(烈公)を指す、天保七八年の荒凶に領内に一人の餓死がなかつたと云ふ水戸藩、富豪を諭して醵金をさせた迄を云つて、其の余を明にしない、孰(いづ)れその醵金で米穀を買つたに相違ない、関東は不作、奥羽は関東よりも甚しい不作、買うべき米殻は何地かにある、白筆筆記の兵器弾薬に就いての記載は首肯し難いが、買米の事を併せて否定するのも、至当の取捨ではあるまい。

平八は江戸廻米に尽力した跡部を詰責しながら、自分では水戸のために買米を周旋した、孰れにも在米を滅じるのは大阪市民の不利である。水戸殿に対する書面の説明は、偶々中斎先生の我儘を露出する、俺は宜しいが跡部は悪いという理屈があらうか。松浦静山侯が遠慮して甲子夜話に書かなかつたのは、水戸家が防穀令を犯したことを忌憚したのであらう。


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