Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.9.19

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大塩の乱関係論文集目次


「天満水滸伝」

その12

三田村鳶魚

『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収

◇禁転載◇


北浜焼討

平八の暴動は二日二夜の騒であつたが、それは役人や市民が騒いだので、匪徒の横行したのは約十時間に過ぎぬ、同勢を云へば二十五人、随行した百姓が三百人あつたとやら、武器は大筒四挺、内平野町と淡路町と二回の衝突、衝突と云へば大袈裟だが、平八の徒が一人討死したに過ぎぬ。暴動としては誠に御軽少なものだが、火事をみれば、享保九年の金屋妙智焼けに亜(つ)ぐ大火である。桂(かつら)公の晩年を賑かした焼討は、未だ東京人の記憶に新たなる処、平八の暴動は、北浜焼討と云ふが適切であらう、その景況は、其の通りと云つて、宜しい。唯だあれが大火事になつた迄の話。手筈が違つて渡辺村の穢多が参加しなかつた、参加した処が決して『幸ひ徳川家の御運未だ衰へず』といふが如き有勢なものになりはせぬ、吉見九郎右衛門や平山助次郎の反忠の為めに、計画が齟齬したといふが、それは既に明日に差迫つた十八日の事で見れば、準備が整頓して居つた筈である、反告に依つて両町奉行の巡見が中止になり、跡部山城守を狙撃する機会を失つた迄の事、元来弔民誅君などゝ心にもないことを云ふから、大阪城奄有(えんいう)の策も云はねばならなくなる、尻の結ばらない檄文に欺かれて、物質上の準備をも考へず、主謀者の覚悟をも調べずに、軍人たる自覚のない幕吏や、全く戦争といふものを忘却した市民と吃驚仰天したのに釣込まれて、物の分量を間違えへるには及ばぬ。

 暴発の準筒は前年九十月の交(ころ)(頃?)から継続して居る、故に天保八年二月七日に、一万人に一朱づゝ施行したのは真に窮民に対する同情から起つたのでなく、暴動の為めに糾合を謀つたものであると幸田氏が考定された。此の救恤を行ふにも月番町奉行へ届け出づべき例規を破つて、無届けで施行を開始したから、跡部山城守が平八を呼び付けて訊問すると、隠居の儀であるから万事公然の沙汰には及ぶまいと心得たのは手落ちであつた、今後の処は中止いたして宜しきやと詫入つた申分、跡部は金の出処も知れて居り、事柄も悪くないから、その儘黙許した、平八は定めて失望したであらう。差止めさせて跡部を衆怨の標的にしたい、それ故に態(わざ)と例規を破つて、先づ跡部を挑発したのである、なか\/細工は精しい。『右北百姓へ施行遣し候間、十九日朝罷越候様被申渡、早々罷出候処、酒肴出し被申候、其上門戸を開き味方不致候はゞ、即時に手討之由にて…』(茶屋貞次書状)、当日も施行といつて百人ばかりの百姓を誘致して、従行を脅迫した。二月七日にも、天満に火事あらば大塩先生の許へ駈付けよと伝語して居る、強制誘惑で良民を暴徒に拵えた、これも、中斎先生一度怒れば雷霆の威ありと云はれたい心胸に過ぎぬ。


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