Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.7.11/2007.10.22訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「天満水滸伝」

その2

三田村鳶魚

『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収

◇禁転載◇


 此度は珍らしく浪花の里に春を迎ヘ、北や南にうかれんと思ひの外、大変到来、時の間に大阪戦場となり、慶長元和之俤、眼前に見物仕り候。委曲は定めて御聞及びも候半なれば、あらまし申上候。

 東町幸行与力大塩格之助養父隠居大塩平八郎(年四十五六位、学術陽明を尊びて博聞強記、槍術の達人にして文武の門人、大阪中は勿論近国他境に多く、先年新見伊賀守殿町奉行の節に大きに用ゐられ、権勢一人に帰し、邪を退け善を挙げ、先官高□の輩に死を与へしもの数人に及び、大きに市中の売買を便にし、少しも金銀に限をかけず、ひたすら勤向に身命を捨て、遠近に徳を敷き、人の心を得ること大方ならず、誠に惶(おそ)るべし、恐るべし、
賢人と奸人と胸中雲泥の違ひありと雖も、面(おもて)を見て真偽を分つこと、いかでか凡愚の及ぶ所ならんや)並に養子大塩格之助(知行高二百石現米八十石)庄司儀左衛門、近藤梶五郎、渡辺良左衛門、小泉淵三郎 *1、勢田済之助 *2是等を宗徒の逆党として、諸々方々の浪人共一味連判数百人、時を待て発興せんとす、其志日本をくつかへすの計略と見えたり。極悪なる哉大塩、妊賊なる哉平八郎、
汝二百年来徳川家の禄を食ひ、譜代の臣として、殊更東照宮の建せ給ふ塀脇に居所を給ひ、専ら御宮の番守と聞えし身が、重代の君に対し弓を引き、泰平の世を騒がして、諸民を驚かし、いかなる罪を与へて是を罰すべきや、其の工(たくら)み一朝一タの事にはあらず、其人をさとす所は、第一公儀の法律悪敷、公役人は金銀に眼をくらまし、諸大名は万民凶年の難儀を見ながら是を救はず、有る米を囲ひ、有福の町人は妻子の美を飾りて人を助けず、我今此のうれひを去りて、天下の人民を救ふにより、志あらば一味せよといふ趣向にてだまし込みぬる故、餓死に及ばんとする浪人原、時を得たりと一味せしと也

 大塩全体の企は、例年六月天満天神の祭りは大阪第一の壮観にして、薩州国産の生蝋は此の一夜に尽くして、尚三百万斤余足らずといへり、これにて賑やかさ御察し可被成候。此夜事を発するの含みなれど、ちと露顕に及びさうにあり、せき立てるといふ一説あり。

 西町奉行堀伊賀守殿、近比新著にて例式の由にて、東町奉行跡部山城守殿御同伴、二月十九日市中御巡見の筈にて、お帰り掛け公用人朝岡助之丞宅へ(朝岡宅は大塩前向ふ也)御立寄御体息の賦(つもり)なれば、其時不時に砲術を以て両奉行並に付の一人も残らず打取、直様市中に放火いたし、騒動のまぎれに御城備なきを乗取り、其上は種々様々の謀酪有之候由。もしおもふ図に仕応したら、いかにせん諸家御家敷多しといへども、都べて蔵屋敷にて人少なり、其上御城代町奉行なくば、差図する人なくて、誰かいでゝ何をかすべき、居ながら屋敷を守りて焼土となるの外他なかるべし、
幸ひ徳川家の御運未だ衰へず、前夜十八日の丑の刻計りに、逆賊一味の吉見九郎右衛門俄に変心して、一子の十五六歳計りなるものに一通の訴状をもたせ、西御奉行へ始終を訴へける故、早速東御奉行へ被通候処、其の夜当番の与力は、逆党宗徒の小泉淵三郎、勢田済之助詰居たり、即ち山城守殿両人を呼出し、小泉を手討に致し、勢田は塀を飛越逃去り、大塩にかくと告げる故、事及露顕たることを平八郎知りて、俄に手術をかへたりといへり、(大塩元来東奉行に遺恨ありて事を起したりといふ説専らなれど、是は全く虚言なるよしなり、大塩本此の企、一朝一タの事にあらず、此の以前、三十内外にて政に預し時より、其下心ありし事は、今更になれば種々の証拠あり、今迄其機を察せざるは愚なりともいふべけれど、此一條においては、古来明賢難しとす、況んや当世においてをや。此凶年を幸に事を起せしこと明白なり、先頃一度は家財雑具を売払ひ窮民に施行し、諸人に味を付け置き、又々書籍類迄売払ひ、二月十九日施行いたすに依り、未明に集るべしと触流しける故、森口、平方 *3 辺の雑民共迄数百人集りたるよし、それをおびやかし従へて車をひかせ飯料を荷はせ、骨よきものは軍役に使ひしと也)
両奉行所共に直様御手当ありといへ共、俄の事にて人数は少なし、御城に駈引往返等に時を移し、已に夜も明はなれければ、大塩方には人数を揃へ、大将分十五六人、雑人原迄二三百人(遠境の者は間に合はずなりしも余程過分のよし、追々捕へ方相成候)、居宅に火を掛け、東照宮を焼き払ひ、備へを真丸(ほんまる)に立て、諸所へ大筒を放し掛け、天満橋を渡りて、御城の方に向はんとせしかども、最早橋向へには、御城よりの備へあると見及びたるにや、直様天神橋にかゝりけれども、橋板引たるゆゑ、浪花橋を押渡り、直に鴻の池善右衛門居宅へ射付、火矢を打込み、三井呉服店も同断、天満辺にて差抜きたる此両家に、火燃上り、折節西風強く、炎八方に飛移り、是より火勢甚だ壮(さか)んにして、いかんと もすべき様なし、是れを始めとして、傍若無人乱暴いたし、透間もなく大筒を放し(松火矢五挺拵へ置たり)棟火矢を以て四方八面に焼立、已に淡路町迄責込候折、味方の手術相備はり、後は御城の手より取切り、前は両奉行の手にて持かため、十匁筒を二十挺許りづゝ揃立、双方より攻寄せ、勝負いまだ不分内、御城与力坂元弦之助 *4 鉄砲の達人にて(門人多し)、衆をはなれ進み寄り、水溜桶を楯に取り、勝れて働く武者 *5 を打留め、続て雑兵一人打倒しければ、味方は是に勢を得、逆党は旗色あしく成立、(旗は四五本立たり、御救と書たる旗一本、天照大神宮の旗一本、丸に二ツ引の紋と五三の桐の紋を付けたる旗二三本、大塩定紋は丸に揚羽の蝶の紋所なるに、五三の桐二ツ引はいかなる故か、とみれば、大塩此以前より、自分に今川義元の的孫なりといひしは、久しく人の聞たる事のよし。此節の企は、自ら今川阿波守と名乗り、右の紋所を用ゐたるよし也、狂気とやいはん、酒乱とやいはん)
元来烏合の雑人原は、鎗刀を投捨て右往左往に逃げ散り、大塩始め大将分の賊徒共いづかたに、いかが跡をかくし候や、爰限りにて頓と行衛不相分、是より火消方にも手を付られ、御屋敷にも人数を出し候様申来り候に付、一手差出候て、漸く二十日夜半に及鎮火、折節大雨ふり出しければ、是にてとんと鎮り申候。


管理人註
*1 小泉淵郎。
*2 田済之助。
*3 守口、枚方。
*4 坂本鉉之助。
*5 梅田源左衛門。


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