Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.7.18/2007.10.22訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「天満水滸伝」

その3

三田村鳶魚

『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収

◇禁転載◇


然る処廿一日には東町奉行所より同心差遣はされ、賊徒御奉行所へ寄せんとの風聞にて候間、御加勢人数被差出給候様申来り、其折誰かいひ触らしたる事にも、薩摩屋敷に押寄する筈ぢや、そこに来た、かしこに見えたと、江戸堀、土佐堀辺、上を下へと返すなど申段の事ではなく、又々大騒動なり、しかし一手は出さずに済まぬ事にて、永井清右衛門、福島半次郎、黒田彦之丞など付役仲仕三四十人、火事装束にてくりいだしたり、
然共双方共に無難にて追日静謐の様に趣き、逆党方には渡辺良右衛門、勢田済之助両人は、河内の内八尾にて自殺、渡辺(自縊)、勢田其外徒党の者共追々捕方相成候由。平八郎妻並に養女子十二三歳、格之助妻(十九歳とのよし、至極の美人傾国の容色なりといへり)、同人摘子当歳、家来両人、下女一人、姥一人、丹波亀山の手にて探し出し、段々と網を張り立、京都にて町奉行の手にて搦め取り候由、先日大阪へ引出申候、(大塩出陣の折、妻子は刺殺し出でたると普く申ふらしたる事にて、其節は左もあるべき事ならんと衆人考居候処、此節になり承り候へば、実は前晩いまだ事露顕に及ばざる内に忍ばせ候由)

 庄司儀左衛門は、南都において生捕たるなど風聞いたし候得共、いまだ慥に不承候。(前件坂元が打留めたりし賊徒の鎧武者は、近国某家の浪人苗名不相分、名は雲八と申て砲術の達人にて、此節大塩がた無二のもの、松火矢、棟火矢より始め、火術は都べて此者一人の仕業、其頼み切たる奴を真先に打せ、賊勢はなはだよわりしといへり。)

 是迄の大阪繁花のうへに花美を尽し、名もしらぬ衣食に富み、婦人は男子に手を引れ、男は女の袖にすがり、酩酊酔醒大路をせばしとうなだれあるきしは、実(げ)に夢か現(うゝつ)か、唯一瞬息の間に羽二重縮緬羽織は鎧冑と変じ、三味線箱や琴箱は抜身の鎗、切火縄の鉄砲とかはり、浄瑠璃、長うたは楽に作る鯨音と、みるが内に変化いたし、元和元年以来絶えて見馴れぬ行装に、衆人肝をつぶせしなり、(大塩其の日の出立は、鍬形付の甲著、黒陣羽織と人相書にも有之候得共、此武者実は余人にして、大塩はブツサキ羽織著用、頭は黒頭巾にて包み、面体もしれぬ様に出立しといへり、此一左右しるゝや否や、摂州尼ケ崎の出勢甚だ早く、混甲(ひたかぶと)百騎、即ち大坂駈付、継て泉州岸和田同断、殊に格別に見得しは御家柄丈ケ紀州侯也。

大阪表急変聞と等しく、鎧武者三百騎、十六里の道を夜通しに押切り、茶臼山に陣を取り、老中よりの使者致登城御城内に謁し、当分紀州殿在府の義には候得共、兼ねて被申付置候手当向も候間、老中共申談、何様なる御用向にても承知可仕、只今三百騎差出し、跡備の儀は一左右次第可馳登との義にて、国元へ控へ置候、左候て大坂より紀州迄の間三里目毎に、早打の番所を取拵ヘ、猶又境目の備厳重に取締候 旨致演舌、四五日間は茶臼山に屯(たむろ)を張り居候得共、無事引取相成候)

 最早とんと泰平の春に立帰り、市中辻うらなども常式通り、うたの文句はすべて大塩ならざるはなし、狂歌狂文も数々有之候得共、取にたらず、面白く聞えしを一首、

大塩が 書物残らず 売払らひ それでこんどは むほん也けり

是は書物を売りて施行いたせし事のありければ、趣向を起せしなるべし。

 右之一件は異説まち\/にて一言ならず、いづれを取るべき様もなけれど、御奉行所詰の者に御屋敷の出入有之、至極慥なる人柄故、大体は其口により且また自分が拙き心をもて、脇噺も慥成儀とおもふを取り、世評は捨て右のあらまし、下手の長文、却々(なか\/)御退屈の程も難計候得共、珍敷事故申上候、始終大繁雑にて今晩も初夜時分立帰り、ねむたけれども明朝共は決て江戸飛脚可被登、夫に一軍不申上候ては無心済、燈火をかき立、乱筆尻口孫左衝門(是は当時首尾相揃はざるといふ藩邸等の俚諺なるべし)書つゞりよむるよめぬの程は、自からも弁ずるに暇なく、巻返して封ずると其儘、枕引寄せ膝を抱て臥せるのみ、乍憚御推読可被下候、
尚余事は後便可申上候、以上。


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