Я[大塩の乱 資料館]Я
2003. 7.25

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大塩の乱関係論文集目次


「天満水滸伝」

その4

三田村鳶魚

『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収

◇禁転載◇


雅量ある廉潔

 早崎の書状にも『少しも金銀に目をかけず』とある、一般に廉直高潔な人であつたと云はれているが、果して平八郎は左様であつたか、平常苦しかつたと見えて、門人の白井幸右衛門、橋本忠兵衛から融通を受けて居る、其処で『大塩が估書一万両、現米八十石の身分に不相応の金額を疑訝(ぎげ)せざるも奇なり』(醇堂叢稿取意)が喫緊な問題になる、一万両は嘘にしても、此の解決が彼の廉直高潔を否定することにもならう。

 平八郎は知行二百石の与力で、実収は四つ取りの八十石、それを二割の搗減と見て六十四石、米価は一石一両と押へれば六十四両、一定の収入と云へば、月割五両一分一朱余に過ぎぬ。大塩の一家は乃ち隠居の平八郎、同人妾ゆう、当主格之助、同人妾みね、同人忰弓太郎、平八郎の養女いくと、若党曾我岩蔵、仲間木八、吉助、塾生の世話をする杉山三平、下女りつ、うたと主従十二人、男扶持が六人分十石八斗、女扶持が五人分五石四斗、弓太郎は嬰児だから仮に扶持を算へずに置く、これで総計十六石二斗、金にして十六両三朱余、若党の給料が四両、仲間が二両二分、杉山も仲間並にして、三人分八両、下女が一両二分、二人分では三両、若党以下四人に与える塩噌料が七両、再計二十二両になる、このほかに武具・家具の修繕、普請入用が六七両、妻子三四人の入用卅両、三計五十八九両、差引いて六七両残る。病気も吉凶慶弔其の他の臨時費も、この残額で無埋にも済まさねばならぬ。(この計算の大体は文政弘化年間録』に拠る)幸いに天保の初は、不作のために五七年は暴騰し、八年には三両近い無類の高直がした、総じて天保の初めは、一石一両二分二朱見当の相場が続いたから、急に六七割も増俸された有様で、役人の豊年を唄つたが、この景気は一時の事で、已前にも已後にも連亙したのでない、天保初年の採算で、士人の生活費を一概に推論することは出来ぬ。

平八郎の学問はおよそ二十年内外のことである、従つて購書も差引残額六七両のうちから、年を積んで収蔵したのであらう、左様とすれば天保八年二月七日の救恤は、金一朱づゝ一万戸に頒与したといふ、その総額は六百二十五両になる、これが悉く蔵書を売却した代金ならば、古本で売つた代価と新しく購入した料金とは、尠く見ても三四割の差がなくてはならない、然らば購入原価九百両前後に達する。之を二十年間に買へば、年額四十五両許に当る。年に六七両の幅しかない平八郎が、如何して此夥しい書籍を所蔵したか、全然購書しても七八両である、それが一家として半銭も衣食費以外に支出せずに済むものでない、酵堂叢稿が誤算して一万両の估書額に驚訝したが、我等は六百二十五両でも疑はずには置かれぬ。

兵庫西出町の柴屋長太夫が、天保三年に入門してから、同八年正月までに購書費四百十両を提供した、と本人の吟味書にある、けれども長太夫の支出は略々(ほゞ)半額の資金で、 他の半額は何としたのか、天保に入つて米価暴騰し、年々三十幾両かの増収があつても、それは六七年のこと、それでも四十余両の購書は財布が許さない、まして文政度の購入は、何の資金を使用したであらう。幸田氏は与力・同心の取入に就いて、

と云つてある。この収入は、当時認めて正式とも云はれて居つたらしいが、慣例をなしたまでの話で、幕府も黙許して居たのであらう、其の性質上、何としても棒緑と同一視し得らるべきものではあるまい。廉直でも高潔でも、平八郎はこの慣例に対しては議論もせず、服従して居たのである。若し精神的に非義非礼を斥けるならば、公然の秘密になつて居るにもせよ、斯くの如き性質の金銭を受授する筈がない、此個條で平八郎を直ちに貪卑な男だと断ずるのも酷であろうが、知覚、聞見、情識、意見の四知が良知を致すに甚だ害があると主張した中斎先生も、付届けや礼銀を甘受して、性質上不快なる慣例に服従するだけの雅量のあつたことは争ふべくもない。感情の極めて強い人であるから、極端に確執する、知行合一に力を用ゐるも厳(げんれい)であらうと想像された男も、実は案外な場所がある、要するに購書の資金は、管下の町人からきた付届や礼銀の堆積である。

 長大夫の吟味書に、『去る辰年中より同人方に相越、修学いたし候処、書籍無之候ては学術も進兼候問、直安之書類其外珍書、此もの蔵書の積にて追々可買入間、金子差越置候様平八郎申聞、最初は心嬉敷存、金五六十両又は銀一貫目程づゝ同人方に差遣、時々書名をも承置候得共、近頃は買入候書名をも悉(くはしく)は不申越、勿論書類は不残平八郎方に有之、未一部も請取候儀無之』と云つてある。それを無断で売り払つた、彼の蔵書の一半は、当然長太夫の所有である。未だ曾て洗心洞へ寄付はせぬ、売払たのは窮民救助の為であつて、中斎先生も忍んで取り計はれたなどゝ弁じない限りもないが、仮にも義賑とさへ云ふ事柄を、横領に依つて行ふとは、ソリヤ聞えませぬ平八さん。

この一点からりウケツコや川流れのない時に清貧を誇り、景気の附け憎い場合に民党呼ばりする者よりも下劣なのが知れよう。まして義賑を行つたのは、私怨を散ぜんとする暴動の準備であつて見れば、議論は一切徒労である。


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