三田村鳶魚 『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収
◇禁転載◇
幸田氏は平八郎の江戸遊学を否定し、東遊せざる彼と林大学頭(名衡、号述斎)との関係を述べて、
中斎門人田結荘千里の話によると、林家用金の調達に起因したらしい、或時平八郎が同僚八田衛門太郎を訪ふと、前刻よりその席に居たのは林家の用人で、今度林家にて家政改革をする故、大阪表で千両の頼母子講を作つてくれろと、衛門太郎に相談をして居る所であつた、平八郎は之を聞き、さて案外の企てを承るものかな、他に洩れては乍憚林家の外聞にも拘り申さう、右金額は拙者調進仕るにつき、頼母子講は御断念下されたく、明朝辰刻前後に御出下さらば、金子は其節お渡し申すと言切つたので、用人は雀躍する計の喜悦、何分宜しくとのみで別れ、平八郎は直様金穴の門弟三人を呼び、委細を話して金子を調へ待受けて居ると、果して彼の用人は時刻を違へず遣つて来た、其所で千両の金子を渡し、伝手(ついで)に大学頭殿のお土産として御聞に入れるものがあると、塾生十余名を召出し、用人の前にて経文を晴誦せしめしに、孰(いづれ)も滞りなく済ましたので、用人は只管(ひたすら)恐縮し、千万厚誼を謝して江戸に還つたといふ事である、勿論一場の談話で年月さえも明白で無いが、代官根本善左衛門の風聞書と対照すると、何様(いかさま)も事実らしく思はれる、風聞書には林家の無尽に白井孝右衛門は五百両、木村司馬之助は三百両をかけ、出金の節、林家家来の表印、大学頭の裏印ある証文を平八郎より渡し、一両年は割戻しがあつたが、其後は右証文を平八郎の許へ引上げ、更に橋本忠兵衛名印の証文と取替へたとある。
と云はれた。交誼のない林家のために、平八郎が金策した、此の解釈は幾様にも試みられる、此の際、三村竹清氏が、歴史の争ひは声の大きい方が勝つ、と云はれたのを名言だと思ふ、斯うした関係を外にして、祭酒林公亦愛僕人也(「寄一斎佐藤氏書」)などゝ遣る、如何にも知遇を得たらしい、対手(あいて)が対手だから、その知遇は学問上から来たらしくも見える、処が左様でなくて、最も嬉しがられる寸法に拵へて置いたのだ。お世辞を尽した佐藤一斎の手紙、一斎は貰つた鯛を魚屋へ払物に出すので有名な先生、御目録次第で親友にも兄弟分にもなり兼ねない、其の頂戴屋の褒めたのが嬉しくて、例の洗心洞剳記の附録に載せて居る。拙堂も山陽も頂戴屋で、拙堂の如きは面識もなかつたといふが、相応にお世辞は勉強して居る、山陽はなか\/懇意にした、従つて御愛嬌も余計にある、共に鄙人に相違ない、此の両人の難有味は、他の機会にお聞かせ申すことにし
たい。
林家の用人が借りに来た時も、大学頭殿へお土産といふので、塾生を呼び出し講習させた、林家の用人は聴聞せざるを得ない時期に於て、当時学問に志す者の栄誉とするに足る方法、即ち林家の用人の前で講釈をして、仮にも大学頭殿へお土産にと云ふ、これで如何程塾生等が喜んだであらう。金穴の門弟の氏名も、講釈をした塾生の氏名も伝はらないが、此の辺から調金の方法を推測されぬでもあるまい、中斎先生は門人をも喜ばせ、林家をも嬉しがらせる手腕があつたのである。融通の才とでも云ふのか、斯の如く怜悧な人であるから、『遠近に徳を敷き、人の心を得ること大方ならず』と早崎状にも書いてある、徳は得なり、中斎先生の評判の善いのが首肯される。
「大塩の乱関係論文集」目次