三田村鳶魚 『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収
◇禁転載◇
藤田東湖の見聞随筆に、矢部駿河守の話の聞書がある、『某甞て平八部を招き、共に食を喫せしに、折節金頭といへる大魚を炙(あぶ)り出せり、時に平八郎憂国談に及び、忠憤のあまり怒髪衝冠ともいふべきありさま故、余種々慰諭しけれども、平八郎ます \/憤り、金頭の首より尾までわり\/噛砕きて食ひたり、……此一事小なりといへども、平八郎の為人(ひとゝなり)を知るに足れり』、これでは直情径行の人の如くにも見える。斯人(このひと)が林家の金策に働いた情況と較べて、是が同一の人物なのに驚く、変化気質は中斎先生の綱領でもあるが、それとは違つた舞台面の転換、撫でてみれば盲人にも知れる盾の両面。平八郎は沈香も焚けば庇も放る男で宜して、その学説は一斎も同按で、『拙も兼々霊光之体、即大虚と心得候処、自己にて大虚と覚、其実意必固(かたし)我之私を免れず、認賊為草之様に相成、難認事と存候』と、且つ勧め且つ戒めたのは埋論であつて、実際は実際である、知行合一も理論として取り除いて、矢郡の云つたやうに『たとへば人過(あやまり)あるとき再三反覆して、之を諌むるは忠といふべし、再三忠告せる上にも其人不用とて之を憤りて、坐に合へる火鉢などを其人の面(おもて)へ投るは不敬の至極なり、初には其人を愛するあまり忠告し、後には其面体へ疵を付けなば、安んぞ其人を愛するにあらん、平八郎も初は忠告すれども用ゐられざるを憤り、叛逆に均しき禍乱を企しは此類なり』ならば、情に溺れ、情に殉ずる者で、寧ろ憐むべきものであらう。
跡部山城守に対する平八郎は、正しく矢部に云ひ尽されて居るのでもあらう、金持町人も彼の悪感を買つたのであらう、狸のやうに仇をしたがる中斎先生、報復がしたいならば、火鉢を投げて跡部山城守の面体を傷け、金持町人の家に放火するも、感情ばかりの男の所為で見れば已むを得ない、学問は何の為めにした抔と詰問はせぬ。
然るに散布させた檄文の中に、
……上たる人、驕奢とておごりを極、大切之政事に携候諸役人ども、賄賂とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義もなき拙き身分にて立身、重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫而已、智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦む上に、右之通無体之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆゑ四海の困窮と相成候付、人々上を怨ざるものなき様に成行候……此節米価弥高値に相成、大阪之奉行並諸役人とも、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、天子御在所へは廻米之世話も不致而已ならず、五升一斗位の米を買に下り候もの共を召捕抔いたし、実に昔葛伯といふ大名、其農人の弁当を持運び候小児を殺候も同様、言語同断……蟄居の我等最早堪忍難成、湯武之勢、孔孟之徳なけれ共、無拠天下のためと存、血族の禍ををかし、此度有志之ものと申合、下民を悩し苦め候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持之町人共を誅戮におよび可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠置候俵米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内田畑所待不致もの、たとへ所持いたし候共、父母妻子家内之養方難出来程之難渋者へは、右金米等取らせ遣候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭一刻も早く大坂向駈可参候、面々へ右米金分け遣可申候、
とあるのは、乱を教えるので、特に窮民を賑わし、奸吏を除くといふ美名に隠れんとするものである。『若大騒動起り候を承ながら、疑惑いたし、駈参不申又は遅参及候はゞ、金持之米金は皆火中之灰に相成、天下之宝を取失ひ申べく候間、跡にて必我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候』とさへ書いである。如何に深く人心を挑発して掠盗に導いて厭はないか、斯うなれば学問も何もあつたものでない。
肴を骨ごとに噛み砕くほどに、率直に感情を暴露しなければ已まぬ平八郎が、林家の金策には出資者をも喜ばせるほどな美術工芸的行為もする。彼は明かに大きく利益と罰とを与へたいのである、己を信心するに就け、信心しないにつけ、それに対し正確に計算して利益が与へたい、此の打算から、跡部に対して最大限の罰が与へたいのである。感情に駆られて理知の暗むのは、決して平八郎のみではない、その時にも昧(くら)まし難いものがある、名利の二個、中人以上でも利は棄てゝも名は棄てられないのが多い、平八郎も名には酷く執着した。北浜焼討の大騒動も、蕩児が待合の費用を悔むやうな気がしたかも知れぬ、それ程になつて居ても、中斎先生がエライといふ自覚だけは残つて居る。まして目に物見せんと大憤激で檄文を書く当時、エライ\/は何程であつたらう、それでも率直な私心の発露を恥づる、美術工芸的に出掛ける、即ち民衆に阿諛して同情製造に腐心した。伝習録の二三度も読んで、藤樹や執斎の兄弟分にでもなつた気のする連中が、平八郎の美術工芸的疏明に感心して、首も尻尾もなく中斎先生を奉る。平八郎の信者にはその辺が適当でもあらう。
武江年表の天保九年の條に、十月、日本橋へ去年二月大阪にて事あり何某が一件落着し捨札立つ、とある。平八郎の獄は此の年の九月十八日を以て決済したから、特に天下に榜示したものと見える、幕府が暴発に驚いたのみならず、民間でも天草事件や正雪騒動と同じやうに思つて、民心の動揺を防ぐために、斯くは前後に例のない榜示をしたのであらう。
「大塩の乱関係論文集」目次