Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.8.8

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大塩の乱関係論文集目次


「天満水滸伝」

その6

三田村鳶魚

『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収

◇禁転載◇


泥坊の奨励 (1)

 藤田東湖の見聞随筆に、矢部駿河守の話の聞書がある、『某甞て平八部を招き、共に食を喫せしに、折節金頭といへる大魚を炙(あぶ)り出せり、時に平八郎憂国談に及び、忠憤のあまり怒髪衝冠ともいふべきありさま故、余種々慰諭しけれども、平八郎ます \/憤り、金頭の首より尾までわり\/噛砕きて食ひたり、……此一事小なりといへども、平八郎の為人(ひとゝなり)を知るに足れり』、これでは直情径行の人の如くにも見える。斯人(このひと)が林家の金策に働いた情況と較べて、是が同一の人物なのに驚く、変化気質は中斎先生の綱領でもあるが、それとは違つた舞台面の転換、撫でてみれば盲人にも知れる盾の両面。平八郎は沈香も焚けば庇も放る男で宜して、その学説は一斎も同按で、『拙も兼々霊光之体、即大虚と心得候処、自己にて大虚と覚、其実意必固(かたし)我之私を免れず、認賊為草之様に相成、難認事と存候』と、且つ勧め且つ戒めたのは埋論であつて、実際は実際である、知行合一も理論として取り除いて、矢郡の云つたやうに『たとへば人過(あやまり)あるとき再三反覆して、之を諌むるは忠といふべし、再三忠告せる上にも其人不用とて之を憤りて、坐に合へる火鉢などを其人の面(おもて)へ投るは不敬の至極なり、初には其人を愛するあまり忠告し、後には其面体へ疵を付けなば、安んぞ其人を愛するにあらん、平八郎も初は忠告すれども用ゐられざるを憤り、叛逆に均しき禍乱を企しは此類なり』ならば、情に溺れ、情に殉ずる者で、寧ろ憐むべきものであらう。

跡部山城守に対する平八郎は、正しく矢部に云ひ尽されて居るのでもあらう、金持町人も彼の悪感を買つたのであらう、狸のやうに仇をしたがる中斎先生、報復がしたいならば、火鉢を投げて跡部山城守の面体を傷け、金持町人の家に放火するも、感情ばかりの男の所為で見れば已むを得ない、学問は何の為めにした抔と詰問はせぬ。

然るに散布させた檄文の中に、

とあるのは、乱を教えるので、特に窮民を賑わし、奸吏を除くといふ美名に隠れんとするものである。『若大騒動起り候を承ながら、疑惑いたし、駈参不申又は遅参及候はゞ、金持之米金は皆火中之灰に相成、天下之宝を取失ひ申べく候間、跡にて必我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候』とさへ書いである。如何に深く人心を挑発して掠盗に導いて厭はないか、斯うなれば学問も何もあつたものでない。

 肴を骨ごとに噛み砕くほどに、率直に感情を暴露しなければ已まぬ平八郎が、林家の金策には出資者をも喜ばせるほどな美術工芸的行為もする。彼は明かに大きく利益と罰とを与へたいのである、己を信心するに就け、信心しないにつけ、それに対し正確に計算して利益が与へたい、此の打算から、跡部に対して最大限の罰が与へたいのである。感情に駆られて理知の暗むのは、決して平八郎のみではない、その時にも昧(くら)まし難いものがある、名利の二個、中人以上でも利は棄てゝも名は棄てられないのが多い、平八郎も名には酷く執着した。北浜焼討の大騒動も、蕩児が待合の費用を悔むやうな気がしたかも知れぬ、それ程になつて居ても、中斎先生がエライといふ自覚だけは残つて居る。まして目に物見せんと大憤激で檄文を書く当時、エライ\/は何程であつたらう、それでも率直な私心の発露を恥づる、美術工芸的に出掛ける、即ち民衆に阿諛して同情製造に腐心した。伝習録の二三度も読んで、藤樹や執斎の兄弟分にでもなつた気のする連中が、平八郎の美術工芸的疏明に感心して、首も尻尾もなく中斎先生を奉る。平八郎の信者にはその辺が適当でもあらう。

 武江年表の天保九年の條に、十月、日本橋へ去年二月大阪にて事あり何某が一件落着し捨札立つ、とある。平八郎の獄は此の年の九月十八日を以て決済したから、特に天下に榜示したものと見える、幕府が暴発に驚いたのみならず、民間でも天草事件や正雪騒動と同じやうに思つて、民心の動揺を防ぐために、斯くは前後に例のない榜示をしたのであらう。


「天満水滸伝」目次/その5/その7

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