三田村鳶魚 『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収
◇禁転載◇
天明の暴動を経験した江戸市民は、戦々兢々として居た、しかし天保の米価暴騰は天災に原因するもので、天明のごとく奸商の作略に出たものでないと信ぜられて居た為めに、禍機を衝発せずに居つたのである。然るに大阪では、天災にもせよ富賈豪商が窮民を救はずに居るのが宜しくないといふので、平八が暴発したと聞いて、噂だけにした処で、幕府の倉廩を目掛ける者を生じた。
四月六日の早朝には、南鍛冶町家主十兵衛宅の入口に、半紙二ツ切の張札があるのを発見した、張札には、天照皇太神宮代天一味救民者也と書いた幟と、救民と書いた酸漿提灯とを描き、旁らに『右当八日諸方手分目印相心衛べく候』と認めてあつた。
また浅草東仲町の町木戸に来八日夜町々乱妨に可及云々と認めた張紙を発見した、この張紙にも、幟と提灯の相印が書いてあつた。
また南鍛冶町二丁自家主重兵衛宅の江戸塀には、
一 此度我等一味之者大阪に置て町々乱妨致候儀は、兼て大阪に書置候通り一偏に諸人助の為にて、私欲の儀者更に不存、依之乍恐天命無憚今に存命罷在候、去ながら小人雲の如くに起り、天光未あらわれず、政事のつたなき事、総身の出瘡(でかさ)にほだ膏薬をはるのみにて更に全き事を不得、残念至極之儀に候、依之此度我等一味之者、二手に相分け、当江戸大阪一時に乱妨致すべく候得共、我等一味の者、摂州河泉其外相武諸国の面々七百余にて、一方わずかに三百之勢にて、且遠路海上の儀故、一時に不全、右に付当八日八ツ時御府内いろは組町火消の面々其外、意(こゝろ)有人々、我等身分相なげうち候條一偏(ひとへ)に助力相頼候、
一 若(もし)勢不全(まつたからず)、不意に相越し候節は海辺放火の合図相心得可申候、
一 当八日夜八ツ時より意(こゝろ)有人々、下町山の手の面々義者、ごじんが原にあつまり、又本所、浅草、下谷筋の人々、上野広小路より相始め、一番に無之、蔵前後より相こぼち可申、其より相分ち、諸役人中、蔵前断々の蔵々一時に相こぼち可申候事、
一 若其場に至りいろは組之内まとへ見へ不申町々之義は、其節指図次第相こぼち可申候事。
右之條々心得之上助力一偏に頼候、
四月 催主 大 阪 浪 人 中
という張札があつた、
神田紺屋町大王庄五郎の妻も、同様の捨て文を拾つた。六月二日の夜には、四谷御門内小十人加藤忠太郎地借田安殿奥詰木村佐左衛門剣術稽古長屋の表蔀へ半紙一枚摺りといふから、印刷した劇文が貼付してあつた。
近来奸臣権を執(とり)、下情上へ不通、中下御旗本、御家人及困窮、中にも御蔵米取之者十人之内八九人者高百俵にて借財百有余両宛有之、其以下高に准じ同様、何れも取続難成、尤借金等者各心掛次第とは乍申、祖父父代より、引受候借財へ次第に利相加、其内臨時吉凶入用等にて追々相嵩み、当時に至て者三季御切米、名のみにて米金共札差方に引取、手元へ入候金子無之、種々頼入、又候借返し等少々も致し、漸取続居候、是とても不弁勝に付、極窮之者色々致悪事、是迄御旗本、御家人家名断絶之者夥(おびたゞしく)、実以歎ケ敷事に候、却而難渋之町人共へは、度々救米等過分御手当も有之候得共、武家困窮之者には少々之御趣意も無之、全奸臣等之所存と被存候、最早此上我々取続も難成、不遠内家名断絶目前に付、同志之面々一統申合之上、札差共其外有徳之町人を致乱妨、窮民を救、便宜により奸臣を始惣而大坂表之例に習ひ、兎も角可相計候、同志之輩も有之候得共、市中に変事出来(しゆつたい)次第、其最寄へ集会可有之候、
月 某
といふので、これはお里が知れる、
窮民ではない窮士の救助を主としたもので、憐むべき旗本御家人の情状を告白した文章と見た方が価値がある。政治上の因果応報の凄じさ、東へ押して西へ倒れる、松平伊豆守信綱の怜悧政策は、乞食もしさうな武士を沢山に製造して了つた。
幕府は恃むべき兵力なく、親しむべき民衆もない、無援孤立の状に立つた、太宰春台が、御当家の末は大かた盗賊の乱世なるべしと云つた(文会雑記)とやら、千古の名言だと思ふ、何にも平八が戊辰の事功に因縁する筈もないが、徳川氏の末路は倫理の一大変で、春台の名言は動かぬ。喰へぬ喰はれぬほどのものはない、理知のない人間が自業でも他業でも、饑餓の境に陥つて暴れ出しては一大事である。
天保八年五月晦目の夜、越後国苅羽郡荒浜村へ生田方外十二三人の浪人が、大塩平八郎門人と名乗つて立現われ、豪農を威喝して窮民救助の資本を出せと乱暴に及び、六月朔日百姓七十人許を引率し、柏崎陣屋へ乱入した。七月二日には大阪斎藤町山田屋大助、同京町堀一丁目今井藤助、同御霊図子御堂前佐藤四郎左衛門の三人が、摂州能勢郡森上村神宮寺に立越し、窮民救助をすると云つて、村役人を脅して附近二十ケ村へ廻状を出させ、人夫を集めたが、騒動に及ばずして捕へられた。
平八の暴動がすぐに影響したと見られるものは、江戸の張札の外には、この二件のみである、しかし当時の小暴動は所在にあつたと思はれる、それは平八に響応したのではない。
「大塩の乱関係論文集」目次