Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.11.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


『日本倫理学史』(抄)その1

三浦藤作 中興館 1943

◇禁転載◇

第三篇 近世  第四章 徳川時代の諸学派
  第二 陽明学派
   第六節 大塩中斎(1)
管理人註
  

 大塩中斎、名は後素、字は子起、通称は平八郎、中斎は其の号である。又 其の居室を洗心洞と名づけ、自ら洗心洞主人と号して居た。寛永五年(1764) 阿波国に生れた。幼にして母を喪ひ、七歳の時、大阪天満町の与力大塩氏の 養子となり、二十歳の頃、江戸に出で、林述斎に師事して、非凡の才を露は した。述斎は彼に大なる望を嘱し、他の諸生を誡むるに、必ず学問躬行よろ しく平八郎に則るべきを以てした。当時彼はまた学問を修むる傍に於て、刀 槍弓銃等の武技を修め、殊に槍術の妙を得た。二十六歳の時父祖の業を襲ぎ て与力となり、忽ち非凡なる治績を示した。東町奉行高井山城守実徳は窃に 中斎の才気絶倫なるを看取し、抜擢して吟味役を命じた。彼は山城守の知遇 を得て、これより大に其の驥足を伸ばし、或は妖巫を誅して邪教を絶ち、或 は悪僧を囚へて乱行を滅し、或は醜吏を糺弾して窮民を賑恤する等、天下の 人心をして駭然たらしめ、数年の中に彼の名声は遠近を震動せしむるに至つ たが、高井山城守の辞職と共に、彼も亦致仕して閑散の身となつた。時に彼 は三十七歳であつた。此の頃の彼は既に陽明学の崇信者となり、頼山陽・近 藤重蔵・佐藤一斎等と交はり、講学に著述に歴遊に其の日を送つて居た。彼 の才学は益々世にあらはれて、其の門に学ぶ者極めて多く、高井山城守以後 に来れる奉行は、施政に関し難件の生ずる毎に、彼の意見を徴して、これを 決した。就中矢部駿河守は最も彼を信頼した。然るに駿河守の後任跡部山城 守は其の器凡庸にして人を見る明なく、遂に中斎をして乱を起さしむるに至 つた。偶々此の頃全国の大飢饉は起り、其の惨状は目も当てられぬ有様であ つた。中斎はこれを傍観坐視すること能はず、養子格之助をして山城守に見 えしめ、大に倉稟を開して窮民を救恤せられんことを請ひたるに、山城守は 徒らに時日を遷延し、遂にそれを許さなかつたので、中斎は其の冷淡なる処 置を慨し、更に工夫を変へ、市中の豪商を説き、以て窮民救助の策を計画し た。然るに山城守は反つてこれを妨害したので、中斎は大に怒り、一切の蔵 書を売却し、六百五十両を尽く窮民に施与した。山城守は此の挙をきゝ直ち に格之助を召し、私名を売らんがための行為として譴責を加へたので、中斎 の憤慨は其の極に達し、遂に兵を挙げて、先づ豪商の家屋を焚燬し、倉庫を 破壊し、金穀を四散し、山城守の兵と戦つたが、衆寡敵せずして敗れ、一商 人の家に潜伏すること一箇月、やがて露はれ、養子格之助と共に家に火を放 ちて焚死した。時は天保八年(1837)三月二十六日、中斎は四十四歳であつ た。中斎は人となり峭酷峻氏A若し心を激せしむるものあれば、殆ど狂せん ばかりに憤怒した。藤田東湖の随筆に、矢部駿河守の言として、「与力の隠 居に平八郎なる者あり。非常の人物なれども、譬へば悍馬の如し、其の気を 激せぬ様にすれば、御用に足るべき事なり。若し奉行の威にてこれを駕御せ んとせば危き事なり。」とあるは、中斎の人物をよく語れるものである。著 書の中では「古本大学刮目」「洗心洞剳記」「儒門空虚聚語」「増補孝経彙 註」が最も著名である。外に「洗心洞学名学則」「古本大学旁註」「大学或 問増註」「洗心洞詩文」「奉納書籍聚跋」等も亦名篇と称せられて居る。

矢部駿州と大塩平八郎」桜庭経緯

















目次/その2

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