大塩中斎、名は後素、字は子起、通称は平八郎、中斎は其の号である。又
其の居室を洗心洞と名づけ、自ら洗心洞主人と号して居た。寛永五年(1764)
阿波国に生れた。幼にして母を喪ひ、七歳の時、大阪天満町の与力大塩氏の
養子となり、二十歳の頃、江戸に出で、林述斎に師事して、非凡の才を露は
した。述斎は彼に大なる望を嘱し、他の諸生を誡むるに、必ず学問躬行よろ
しく平八郎に則るべきを以てした。当時彼はまた学問を修むる傍に於て、刀
槍弓銃等の武技を修め、殊に槍術の妙を得た。二十六歳の時父祖の業を襲ぎ
て与力となり、忽ち非凡なる治績を示した。東町奉行高井山城守実徳は窃に
中斎の才気絶倫なるを看取し、抜擢して吟味役を命じた。彼は山城守の知遇
を得て、これより大に其の驥足を伸ばし、或は妖巫を誅して邪教を絶ち、或
は悪僧を囚へて乱行を滅し、或は醜吏を糺弾して窮民を賑恤する等、天下の
人心をして駭然たらしめ、数年の中に彼の名声は遠近を震動せしむるに至つ
たが、高井山城守の辞職と共に、彼も亦致仕して閑散の身となつた。時に彼
は三十七歳であつた。此の頃の彼は既に陽明学の崇信者となり、頼山陽・近
藤重蔵・佐藤一斎等と交はり、講学に著述に歴遊に其の日を送つて居た。彼
の才学は益々世にあらはれて、其の門に学ぶ者極めて多く、高井山城守以後
に来れる奉行は、施政に関し難件の生ずる毎に、彼の意見を徴して、これを
決した。就中矢部駿河守は最も彼を信頼した。然るに駿河守の後任跡部山城
守は其の器凡庸にして人を見る明なく、遂に中斎をして乱を起さしむるに至
つた。偶々此の頃全国の大飢饉は起り、其の惨状は目も当てられぬ有様であ
つた。中斎はこれを傍観坐視すること能はず、養子格之助をして山城守に見
えしめ、大に倉稟を開して窮民を救恤せられんことを請ひたるに、山城守は
徒らに時日を遷延し、遂にそれを許さなかつたので、中斎は其の冷淡なる処
置を慨し、更に工夫を変へ、市中の豪商を説き、以て窮民救助の策を計画し
た。然るに山城守は反つてこれを妨害したので、中斎は大に怒り、一切の蔵
書を売却し、六百五十両を尽く窮民に施与した。山城守は此の挙をきゝ直ち
に格之助を召し、私名を売らんがための行為として譴責を加へたので、中斎
の憤慨は其の極に達し、遂に兵を挙げて、先づ豪商の家屋を焚燬し、倉庫を
破壊し、金穀を四散し、山城守の兵と戦つたが、衆寡敵せずして敗れ、一商
人の家に潜伏すること一箇月、やがて露はれ、養子格之助と共に家に火を放
ちて焚死した。時は天保八年(1837)三月二十六日、中斎は四十四歳であつ
た。中斎は人となり峭酷峻�氏A若し心を激せしむるものあれば、殆ど狂せん
ばかりに憤怒した。藤田東湖の随筆に、矢部駿河守の言として、「与力の隠
居に平八郎なる者あり。非常の人物なれども、譬へば悍馬の如し、其の気を
激せぬ様にすれば、御用に足るべき事なり。若し奉行の威にてこれを駕御せ
んとせば危き事なり。」とあるは、中斎の人物をよく語れるものである。著
書の中では「古本大学刮目」「洗心洞剳記」「儒門空虚聚語」「増補孝経彙
註」が最も著名である。外に「洗心洞学名学則」「古本大学旁註」「大学或
問増註」「洗心洞詩文」「奉納書籍聚跋」等も亦名篇と称せられて居る。
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