Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.11.20

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


大塩平八郎の義心

水木梢

『皇民錬成日本主義の教育』高踏社  1932 所収

◇禁転載◇

大塩平八郎の義心管理人註
   

 大塩平八郎は、大阪の人、十四歳の時から与力見習となり、 その後、東奉行高井山城守の知遇を得たが、天保元年、三十 八歳の時、肺病のために致仕して、子弟を招き陽明学を講義 し、天保四年には「洗心洞剳記」(二巻)を刻した。しかるに 天保七年に至つて、二月の霖雨と七月の大風のために、飢饉 が起つたので、再三上書して発廩救恤を懇願したところ、当 時大阪の町奉行及び与力の腐敗甚だしく、殊に天満の与力の 如きは、同年三月、一心寺の疑獄事件で悉く江戸に召問せら れてゐた。そこで平八郎は、翌八年正月、洗心洞義盟を結び、 ひさかに妻子を離別し、二月十七日夜、挙兵の檄文を摂津、 河内、和泉、播磨の村々に頒布し、越えて十九日を以て兵を 挙げ、民軍の従ふもの八百余人、兵火三昼夜に及んだが、こ れよりさき、十七日、平山某が東町奉行跡部山城守に内訴し たために、この計画は失敗に終つた。  この史実は、平八郎の挙兵の動機は、一点の私心なく、ひ たすら窮民の救済を計らんとする義心からであることを看取 せしめたい。しかしその結果たる手段方法が国法に触れたの で、道徳的行為として賞讃に値すべきものは、その動機と結 果の二つながら善なるべきものにあるのであるから、行為全 体としては到底是認さるべきものではない。今日五・一五事 件が、行為の結果はもとより国法に触れるが、その動機に於 て是認さるべき数々を含んでゐるといふ理由を以て、世間の 同情は翕然として彼等の上に集つてゐるのと同様である。  そこで平八郎の場合に於ても、一面彼の義侠心は買つてや るべき価値があると考へる、彼の血脈中には、日本男子の仁 侠的気慨が滾々として流れてゐた事は、彼の檄文中に「此度 の一挙、当朝平将門、明智光秀、漢土の劉裕、朱全忠の謀反 に類し候と申者も是非有之道理に候得共、我等一同、心中に 天下国家を簒盗致し候慾念より起し候事には更に無之、日月 星晨の神鑑にある事にて、詰る所は、湯武、漢高祖明太祖、 民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑しく覚 候はゞ、我等の所業終候処を、爾等眼を開て看」とあること によつて証されるのである。彼も亦所謂「男の中の男」であ つたかも知れぬ。  殊に彼の檄文の袋上書の裏に伊勢神宮の大祓が張られてあ るなど、彼もまた佐藤信淵の復古法のやうな社会思想を抱い てゐたことが察知される。  要するに平八郎を見るに、「単に一介の与力語るに足らず」 と片付け去ることなく、仔細にその人となり、その思想を点 検して、その心情、動機に関心を持たしむることは、強ち世 道人心を害するものではなく、いさゝか国民精神作興の資料 たりうべきであらう。


















石崎東国
『大塩平八郎伝』
その82 

島野三千穂
「一心寺事件
の知恩院ヘの
飛び火と岱真
上人翕然
(きゅうぜん)
多くのものが
一つに合うさ
ま




滾々
(こんこん)
流れて尽きな
いさま

「大塩檄文強(あなが)ち
 


「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ