Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.14訂正
2001.6.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 伝』 その82

石崎東国著(酉之允 〜1931)

大鐙閣 1920

◇禁転載◇


収録にあたって、適宜改行しています。
また、明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

   天保七年丙申先生四十四歳 (1)

跡部山城守
東町奉行ト
ナル

是年春三月八日東町奉行大久保讃岐守罷メ四月廿八日跡部山城守良弼之ニ代ル。
茶臼山一心
寺事件
是ヨリ先キ大阪茶臼山一心寺獄起リ、一心寺僧侶捕ハレ、東組与力又多ク連坐ス、初メ一心寺僧奸詐事ヲ計ルモノアリ、東照廟ヲ一心寺内ニ建立セントシテ東町奉行大久保讃岐守ヲ欺瞞シ幕府ニ禀申ス、同組与力又之ニ与ルト称セラル、即チ皆ナ江戸寺社奉行所ニ召問糾弾セラル、大西与五郎等初メ先生ノ親戚門人其中ニアリ、是ヲ以テ先生モ亦公儀ヲ遠慮シ一時文武ノ稽古ヲ中止シ謹慎ノ意ヲ表スルニ至ル、

獄数月ニシテ落着ス、即チ一心寺僧侶ヲ仕置ニ処シ、東組与力ハ無構職仕故ノ如キヲ得タリ、蓋シ大久保讃岐守ノ革職是ニ原因ス。

    大塩平八郎伝云 大久保讃岐守茶臼山一心寺ノ請願ヲ容レ、東照廟設立ノ事ヲ建議シテ幕旨ニ忤ヒ罷職トナリ承談ノ吏員連座坐ラルゝ者多ク、平八郎ノ親族門人モ亦其中ニアリ云々。

    天満水滸伝云 東組与力大西与五郎は平八郎の伯父なり、大久保讃岐守勤役中茶臼山一心寺へ御宮造立の事に付あらぬ事とも出願したるものあり、讃岐守は之が越度にて御役御免差控仰付られ、一心寺住持は御仕置となり、 与五郎も同組与力諸共関東に下り申開き帰阪して後何となく心配せしが原因となり、心気虚脱して世にいふ痴漢となれり云々。

按ズルニ一心寺疑獄ナル者ハ今茲春以来ノ出来事ニシテ僧侶ハ死刑、奉行ハ革職トナリ、且ツ東組与力ノ殆ンド全部ヲ江戸ニ召問シ、糺弾数月ニ至テ漸ク落着セシト云フニ考フルニ又近時ノ重大事件タリシヲ察スルニ難カラズ、而モ其事文書ノ徴スベキモノ無ク従テ其真相相明カナラザルハ恨ムベシ、

蓋シ先生ノ是ガ為ニ深慮謹慎ヲ表セラレシハ在江戸ノ高槻藩門人芥川思軒ニ報ズル書中ニ云フ

    御地にて御聞も可被成哉一心寺一件にて同組之者寺社奉行所へ被召罷出候故小生一己之深慮を以文武共稽古相休居申候、夫故高槻表へ得罷出不申候、其内発落いたし候はゞ高階氏抔可訪積、其節御留守宅も可伺と奉存候 (五月廿九日)
以上ノ書簡中文武ノ稽古ヲ休止シテ謹慎ヲ表スト雖モ、而モ是レ先生一己ノ深慮ニ出テ敢テ此ノ事件ト何等関係アルニアラザルハ最モ注意ヲ要ス、而シテ先生ノ尚且ツ講ヲ廃シ客ヲ謝シテ是ニ至ルモノ亦親戚門人ノ厄ノ為メノミト云フベカラズ、前年暴政家沼津侯斃レテ新政未ダ起ラズ、客歳但州弑奪ノ獄アリ、去年大阪大火災アツテ未ダ幾クナラズ又一心寺獄起ル、

天保四五年ノ飢饉未ダ癒エズ、今年又二月以来霖雨気候順ナラズ人心恟々タリ、先生之ヲ天象ニ考フルニ慧孛出テ惑見エ、天下殺伐ノ気動ケリ、先生是ニ至テ感慨措ク能ハズ、頻リニ深山幽谷ヲ求メテ隠遁セントシテ得べカラズ、其時ノ情懐之ヲ平松楽斎ニ洩シテ云フ

先生丙申ノ
天文ヲ案ス
    一昨年甲午之腐作も差上候事有之に付、当丙申之義も愚慮一寸左に御話申候、尭夫先生之元会運世に引当候はゞ、軍内可適事とも不少也、東都三月十三日迄、公侯争一件、世上風聞高く、則十三日は丙申にて東火西金克闘、日躔は婁六度、惑も觜参、月は翼軫之交、何れも斬伐を呈し、箕畢二星、風雨を好候而已ならず、余星も敗亡無疑、去年慧孛西北より出、南へ流没いたし候、先書にも被仰候、但州殺奪之咎微にして可畏々々、世事近来不堪 聞、






尚々御覧後
丙丁ニ付シ
可被下候
    偖先月中、小谷左金吾殿、伊州より内々御西游のよしにて拙家枉訊有之候処、春来当表も一変事出来、甚不思議成る義にて、紙上には難書取、此一件にて同番之者共、東都へ被召罷下候、僕は何も先差構候義は更無之候得共、一己之深慮を以、都而之対客者相断居候、呉々残懐之至に御座候、一応以書中小谷氏へ断申進候得共、猶御地へ被罷出候はゞ、宜様御断御通し可被下候奉願候、此人胸宇休々如有容義始而承知感悟仕候、其内遊行仕候はゞ小谷氏可相訪と存候、其節貴兄にも再会仕、時節感嘆之次第をも御話可申上と奉存候、真之桃花源有之候はゞ其処へ逃遁仕度候得共、当時者深山幽谷迚も俗吏之跡有之、塵紛市朝同事、夫故却而修身之二字を以、塵を塵中に避候よりいたし様無之と存候下略 (五月十三日)


石崎東国「大塩平八郎伝」目次・その2その2(年譜)
その81その83

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