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大塩の乱関係論文集目次


「一心寺事件の知恩院ヘの飛び火と岱真上人」

その1

島野 三千穂

『大塩研究 第31号』1992.3 より転載

◇禁転載◇


    

はじめに

 一心寺事件は大塩平八郎(以下、大塩と略す)挙兵前年(天保七)に判決告知された。(丁度同時期の大塩門人自尽・賊面灸治 *1 と共に)東西与力同心の組替の風説にもからんで、大塩暴発の引金の遠因ともなったかと云う説 *2 もある。それ故、ことは大塩の評価にも繋がるため、この事件は慎重に考察すべきだと思料する。しかし残念な事には、この事件は、先学幸田成友・石崎東国の論考 *3 で出尽してしまった感さえあり、極めて残存資料の乏しい事件であった。そこで小論では次の事に留意して論を進める。

(一) 私なりに見つけた新史料も若干ある *4 *5 *53 が、先学の教唆に富む論考を全面的に書きかえる程でもないので、屋上に屋を架す事は避けて、重複すると思われる箇所は、後註に史料紹介するに止める。

(二) この事件は後述する如く、神像の掛物表装・開眼証状・什物帳改竄で、本寺の浄土宗総本山知恩院とその塔頭にまで飛び火した。そこで事件当時、増上寺山内寮主・知恩院寮坊主役の地位 *6 にあったと思われる岱真 *7 に焦点を絞る事により、知恩院側より見た一心寺事件の真相究明を試みたい。その為、前史として、第一章、(一)一心寺→一心寺破戒僧事件、(ニ)知恩院→知恩院破戒僧事件、(三)増上寺→増上寺香衣騒動を概観する。第二章では、知恩院における一心寺事件の本論へと移り、第三章で知恩院における一心寺事件の後年への影響にまで言及してみる。浄土宗には門外漢の管見で博雅の御叱正を賜り度いと考えている。


【註】
*1  
(A)「大塩平八郎伝」石崎東国 大鐙閣 大正九年十二月 二二一〜五頁。自尽・賊面灸治共に天保七年説。
(B)「大塩平八郎建議書」仲田正之編 校註 文献出版 平成二年三月 一四二−三頁。賊面灸治は天保六年。
(C)「大塩平八郎」宮城公子 朝日新聞社 昭和五十二年 九月 二一六−八頁。自尽は天保七年説。
(D)「大塩中斎書簡」津市教育委員会。昭和六十三年 一七頁頭注。自尽は天保七年説(但し自刃と一心寺事件は関係なし)。
*2   
(A)「大塩平八郎」岡本良一 創元社 昭和五十年九月 八四−八頁。
(B)「大塩平八郎」幸田成友 中公文庫 昭和五十二年十一月 一○二−三頁。
 ただし幸田・岡本共に大塩門人自尽・賊面灸治の考察を除外している。

*3  幸田成友は「大阪市史」編纂中に博捜した豊富な史料をもとにして「大塩平八郎」を執筆したと思われるが、惜しむらくは、出典を明示しなかった。註 *2 (B)に同じ。一○二−三頁 石崎東国の「大塩平八郎伝」は典拠がはっきりしていた。しかし、幸田の参看したであろう幕府側史料を見てい ない。その為「ソノ事文書ノ徴スベキモノ無ク従テ其真相明カナラザルハ恨ムベシ」と述べている。註 *1 に同じ。 二一七−二一頁。

*4  小論では限定出版の浄土宗の寺史であった為か、全く研究者の注目を引かなかった、左の著書を紹介する。「一心寺誌」(非売品)前田穂瑞一心寺刊。昭和十四年十月 三十七−八頁。前田は「浄土宗全書十八」野沢俊冏 浄土宗典刊行会編纂大正二年八月、一一三−四頁に記載の『岱真上人伝』に一心寺事件の記録の断片があるのに着目して十三行であるが哀史一心寺を叙した。従つて、小論は前田の「一心寺誌」と『岱真上人伝』の学恩を蒙っている。

*5  「御仕置例類集 天保類集」。
 
(A)拾五之帳第十二冊一○○頁。
(B)四拾三之帳第十五冊一○○−三頁。
(C)四十九之帳第十五冊四四三−六頁。
(D)五十一之帳第十五冊五四六頁。
仕置評議の分類 一心寺事件関係者
15後触并申渡等を背又は忘却いたし候類 (市兵衛?)
市郎兵衛
43巧事取拵之類 竜誉、岱真、仁誉、体誉、沢典、淵誉、融誉
49捨置間敷儀等閑又は心得方麁(そ)略之類 知隨、愍誉、源次郎、聴誉
51不筋の取計いたし候類 藤方宗之進

 『評定所における仕置の評議を分類編集したもので、形式的には判決そのものではないが、実質的には判決と称してさしつかえない。』まえがき(二頁)。
  編者 石井良助 名著出版 昭和四十八年。

*6  註 *5 (B)に同じ。岱真。

*7  岱眞。
  生涯と人となり
  岱真は上人名を袋(マゝ)真聴蓮社貫誉伝阿聞慶という。次の略年譜は『袋(マゝ)真上人伝』によって作成したものである。

   岱真略年譜  
年  次 年齢 事        項
寛政6年 名古屋藩邸に生まれる。通称慶之助  平復又茂水。(尾州藩士城(マゝ)牧右衛門の長子)世々藩の槍術指南役。
文化9年 19 家督を次弟に譲る。菩提寺の相応寺皆誉聞隆上人について出家。聞慶と 改める。
文化12年 22 増上寺南中谷蔡花楼で宗学の研鑽につとめる。
文化14年 24 教誉大僧正について宗戒両脉を稟承する。前袋誉典常上人の弟子となり名を岱眞と改める。
文政2年 26 京師に遊ぶ。祖廟に詣でる。洛西嵯峨立道上人の門に入る。
文政6年 30 南都北嶺の知識を訪い五山十刹の禅門をたたく。
文政9年 33増上寺に帰錫し葵花楼を相続し学寮主 となり、大衆の請により講筵をしく。
文政10年 34 華頂門主の侍講となる。
文政12年12月 36師袋誉典常上人蔡花楼浄室に自尽する。
天保3年 39増上寺の学席を辞す。京師に遊ぶ。
天保6年 42知恩院聴誉大僧正の強招辞する事出来ず内役常侍の職につ く。
天保7年12月 43大坂一心寺の事にかんし公障に触れ(大僧正、職を退き)、そのため三都追放の身となる。このため、尾州知多郡緒川村善導寺に隠棲。仏典の講説訪客の応接、子弟の教導に努める。道俗の帰仰頗厚い。
天保14年4月 50 江州草津覚善寺にうつる。京師の学徒歓び迎え教えを乞うもの日々に加わり寺舎の狭隘を感じ一宇を増築。
弘化3年5月 52 寂す。一心寺事件の赦免の官許が下ったのは、没後七日という。

*53「未刊随筆百種第三巻」三田村鳶魚編『事々録』中央公論 昭和五二 二四九−二五○頁。

 

第一章 一心寺事件前史

(一心寺の概要)

 大阪四天王寺の西門の大鳥居を西へ五分ほど行くと、左手に一心寺が見えて来る。大坂冬の陣で、徳川家康が陣を置いた茶臼山もほんの近くだ。お彼岸ともなれば群参の老若男女に驚かされる。関西ではよく知られた「お骨仏の寺」一心寺 *8 は今でも息づいている。しかし今見る一心寺は後の中興の祖第五十世真阿 *9 が復興した一心寺だ。小論の考察の対象となるのは、その少し前の荒廃の一心寺である。第四十九世昇誉 *10(入山天保二−遷化五)を少し上下に三年ほど幅をもたせた曖味模糊とした頃の一心寺だ。この寺には、大塩在世中、二つの事件 *11 がおこった。文政十二ー三の一心寺破戒僧事件 *12 と大保六−七年の小論で述べる、東照宮造営にかかわって僧竜誉が死罪に処せられた、いわゆる一心寺事件だ。

 第一節 一心寺破戒僧事件

 この事件は文政十二年十二月、大坂東西町奉行の大坂市中ならびに摂河在々ヘの触流しにはじまる。

とあるによって知られる如く、女犯僧に対する事前警告であった。このお触れが出ると梵妻に暇を出した寺もあった *13 。越えて文政十三年二月改悛の意なしと認められた、諸寺院の僧侶多数が惣会所へ御預け、もしくは入牢となった *14 。大塩の三大功業の一つ、破戒僧事件の勃発だ。一心寺の僧侶もこれに含まれていた。しかし天保二年以前の一心寺の状態を叙した昇誉の記述 *15 によると『他宗の僧入り込み無住持のこと』とあり、摂陽奇観 *16 でも『いまだ本住にならず』と記録し、この破戒僧が知恩院末の浄土宗一心寺の僧侶なのか、他宗の僧侶なのか判断に迷うところである。そこで、ここでは詳論しない。

 第二節 知恩院破戒僧事件

 大坂の破戒僧摘発に影響されたのか京都でも、ほぼ同時期の文政十二−三年四月頃には八ケ寺の女犯僧が召捕られ、その中には知恩院寺中の住持も含まれていた。 『浮世の有様』 *17 に、 によって知られる如く『知恩院では脱衣追放と多分に臨機的、即興的な付加刑が加えられた』*18

 第三節 江戸増上寺の香衣(こうえ)騒動

 文政十三年正月、京都知恩院で宗門元祖忌の法事をしている時、増上寺より急ぎの召喚状が総本山知恩院に舞いこんだ。さては江戸でも京大坂に同じく、破戒僧事件が起きたのかと人々は思った *19 。さにあらず。増上寺では香衣騒動が勃発した *20 。香衣着衣 *21 にからんで増上寺で一山が左表の二派にわかれて激烈な争いを展開していた *22 *23 *24

  増上寺の僧侶 出 身 仕 事 将 来 性
 
『知恩院史』
『浮世の有様』の説明
大 衆所 化
 
国々より仏道修行
に江戸にきた僧
積学・学問大寺院の住職となれる。
坊 中
 
寺中道達
常に寺中に住む仏事誦経の節、鉦太鼓・どらの打役一生役者で立身成がたい。

 文政七年三月より文政十二年十二月まで闘争は続いた *25 *26 。そして遂に、一人の僧が、文政十二年十二月廿七日、自尽して果てた *7 *27 *28。この僧こそ、(一心寺事件の岱眞の師)に当る人であった。増上寺一山大衆(学問僧)の騒動を解決出きないためみずから責任を明らかにした(この香衣騒動が文政十三年正月、知恩院へ報知され、召喚状が届いたのだ *29 )。一方、この騒動を感知した幕府は、増上寺が将軍家護持の寺 *30 でもあり、放置する訳には行かず、文政十三年正月(増上寺の本寺であった)鎌倉の光明寺にいた聴誉(後、大坂一心寺事件に連座)などに、紛争調停を命じた *31 。かくて文政十三年五月十日、増上寺坊中(役僧)の香衣着衣を幕府が停止する事で、さしもの大衆(学間僧)の騒動はおさまった *32 *33


【註】
*8 「一心寺風雲覚え書き」一心寺貫首 高口恭行 昭和五十七年十一月 一○七〜八頁。大阪市天王寺区逢坂上之町。坂上山高丘院。

*9 五十世 後中興法蓮社戒誉上人眞阿如実算孝道顕興大和尚
     嘉永三年十一月二十五日遷化 *8 一二四頁。
*10 四十九世 得蓮社昇誉上人善心道阿香粲大和尚 天保五年十月四日遷化 *8 一二四頁

*11 「大塩研究三○号」(六○、六二−三、六五頁で向江強は「大塩平八郎建議書」に記載の「一心寺」が文政十二−三年一心寺破戒僧事件でなく、天保六−七の一心寺事件に該当するという見地より短いが有益な論考を「甲子夜話」などを引用して提示した。しかし小論では、この「一心寺」が、どちらに該当するか残念ながら判断する史料を持ってない事を断っておく。尚『一心寺宰領ニ参候牧野権次郎兄八田衛門太郎等』の解釈であるが、向江は『一心寺事件の宰領で来坂した牧野権次郎及び兄の八田衛門太郎等』と解釈する。小論では次の如く解釈する。『一心寺宰領に参府した牧野権次郎兄の八田衛門太郎等』その埋由としては『浪華御役録』に次の記載があって共に大坂東組与力である事がわかる為である。

 猶、天保九年九月寺社奉行へ不受不施囚人を宰領して参府した西組与力勝部与一郎は天保十の『浪華御役録』では遠国役、勘定役、吟味役であった。

  「大坂町奉行与力史料図録」大野正義 昭和六十二 三○二頁。

*12        
(A)「大坂の世相」岡本良一史論集下巻 一九八九年九月 清文堂出版 一三一−三頁。
(B)『浮世の有様」「日本庶民生活史料集成」二○六−七頁。

*13『浮世の有様」二○七頁。

*14「浪速叢書第六」「摂陽奇観」文政十三年二月 四三八頁、同四月 四六○頁。

*15 註*8に同じ。一○七〜八頁。

*16 註 *14 に同じ。

*17 註 *13 に同じ。二○九頁。

*18「近世刑事訴訟法の研究」平松義郎 創文社 一九八八年二月 三五四〜六頁。

*19 註 *13に同じ。 二一○頁。

*20 同右。

*21 浄土宗では紫、緋以外の色に染めた衣をいう。免許があって着用が許される。
  『日本国語大事典4』小学館 四二一頁。

*22 註 *13 に同じ。

*23 「知恩院史」昭和十二 一○八六頁。

*24 「浄土宗大事典4」浄土宗大事典刊行会 昭和五十七年一月 六四頁。

*25 註 *23に同じ。 一○八七頁。
   『文政十二年二月増上寺大師尊像供養法要の時、大衆は坊中と席次を争った。」

*26 同右。
   『文政十二年十二月には恒例の伝法法会を行う事が出来なくなった。』

*27 『岱真上人伝」「浄土宗全書18」野沢俊冏 浄土宗刊行会編纂 大正二年八月 一一三−四頁。

*28 註 *24 に同じ。

*29 註 *13 に同じ。 二一○頁 

知恩院は香衣執奏の所管であった(それとの関係は未考)。「浄土宗大事典」三頁。

*30 「近世浄土宗の信仰と教化」長谷川匡俊 渓水社 八八年 二九頁 浄土宗檀林に課せられた寺院機能の問題として、@宗門行政、A宗侶養成・宗学興隆、B徳川将軍家護持の三点をあげている。

*31 註 *23 に同じ。 一○八七頁、一三八一頁。

*32 註 *23 に同じ。

*33 註 *24 に同じ。


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「一心寺事件の知恩院ヘの飛び火と岱真上人」その2

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