Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.25

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大塩の乱関係論文集目次


「宇津木静区と九霞楼」

その5

森 繁夫

『人物百談』三宅書店 1943 より

◇禁転載◇


(下)

 天保六年、静区西游の途次、を伊予三津浜に留め、里正松田渙卿を訪うた、渙卿名は信順通称小八郎渙卿は其字、浩斎酔樵と号し、家を九霞楼と称した、天明五乙巳年松山新町に、古くより素封家として聞えたる永木甚五兵衛理義の二男として生れた、母は松山府中町高田孫兵衛正則の女、故あつて三津浜なる松田信得の養嗣子となつた、松田家は世々酒造業を営み、唐津屋と呼ばれ、富豪を以て鳴つた。

渙卿大年寄として、町政を掌りて令聞あり、天保十三壬寅年五月二十九日歿、年五十八、歿するの前五日、死命の迫るを悟つて心魂如一水、空此向西流他力得名月、往生永劫遊、壬寅五月廿四日正午、浩斎順題臨終詩、と辞世を唱へた、合掌珠数を手にせる自画像が今伝はつてゐる。遺骸は自家の建立に拘る正覚寺に葬つた、法名行誉慊菴思居士。

 渙卿歿翌々年、松山藩儒日下陶渓于時六十鼓、渙卿の画像に題して其伝を作す、両者は郷を同うし又庚を同うした、蓋しよく記者其人を得たものであらう。


『人物論』目次/その4/その6

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