その4
◇禁転載◇
一説、この際、穆が家郷に携帯した消息といふのがある、石崎東国氏の『大塩平八郎伝』は、天満水滸伝を引用して、次の如く伝へてゐるが、これを家兄に宛てたものとすれば、文中『御両親様奉始』とあるのが頗る怪しい、故は、静区の父久純は此年より十二年前に既に歿してゐる、あまりに巧妙過ぎて、却て非を暴露した偽書の悲哀ではあるまいか、尚この文には、介し難き條項二三数へるものがある。
一筆申残候、追日暖和相成候処、御両親様奉始、益御機嫌克可被成御座奉恐悦候、然者私儀先達而小倉表より申上候通り、雨天勝に候得共日積大体十七日之夕刻、大阪阿治川へ着阪仕候、四ケ年以前出立之砌、師弟之契約仕候平八郎天魔身に入候哉、存外之企有之、大阪町奉行を討取其外市中放火致し、御城をも乗取可申抔と企候謀反にて、私荷担可致被申強而申聞候に付、種々諌言致し候得共、申出し候事返さぬ気性ゆゑ、容易には承知も仕間敷奉存候、乍併此儘見棄罷帰り候ては、武士道不相立其上斯の如く大望打明し候事故、生ては返し申間敷、乍去荷担仕候はゞ第一御家の御名を穢し、忠孝の道に背き、師を見捨候ては義相立不申、無拠一命を差出し、今夜平八郎始め徒党之者共へ篤と利害を申聞、忠孝仁義相立候様可仕奉存候、何共重々御前様万端宜敷御機嫌奉願候、是迄厚御慈悲を蒙り、私帰国も無程と御待も被下候儀と奉存候へば、猶更帰国難忘事、未練之者と思召も耻入候仕合に御座候、斯る時節に参り合せ候は、私武運に尽候儀と奉存候、様子具に申上度候得共、何れ即日様子は御地へ相知れ可申候間不申上候、大阪騒動と御承知被下候はゞ敬治儀は相果候と被思召可被下候、最早時刻に可相成、心急ぎ荒増申上候、余は御察し奉願上候、以上。
二月十八日
尚々友蔵儀永々旅中厚世話致呉候、未一礼をも不致相別申候間、宜敷御伝へ可被下候以上
静区の遺書を、しかと肌身につけて、竊にこの危域を脱出した穆は、後に当時を追想して『己而正一刃先生。先生従容伸頸受之。未殊。穆尚不忍去。先生瞋目大声叱之曰。去去。鳴乎声尚在耳。而竟為永訣矣。哀哉。』と云ひ『乱定。請官而葬得屍於兵燹中。其傍数尺烈不及。故其支体不少爛。如有天祐者。』と、聊か満足の意を表してゐる、その劇的光景真に目睹するの感がある、『静区路史墓』と題せる一墓の墓標の下に先塋に隣して葬られたことは、せめてもの頼ひといふべきであらう。
実にこの際に於ける白面の一青年、十八歳になつたばかりの穆の存在は、静区の人物全部を白か、黒か、に截然と判ぜしめる有意義のもので、若し穆にして其遺書を附託せらるゝなく発表せらるゝ無かりしならば如何、静区の思想及措置は、遂に永久に葬られ、限りなき恨を地下に呑むべきであるのみならす、延いては徳川譜代の藩に重職を帯べる、家兄の身上にも亦その悪果を及ぼすべきであつた、世間此種真相の知らるゝなく、寃に泣くもの数限りもないことであらう。史乗の軽々に速断しがたき、思うて惧れざるべけんやである。紀州の碩学倉田袖岡*1は静区を賛して
知花難矣処死尤難先生従容受刃不酸為師尽言立志目安人能奉教節義可観達遺書使家人看我読其伝掩巻長歎
といひ、依田百川は、在人の『静区が彼の際に、伴つて大塩に従ひ、急を上告したならば、啻に禍を免るゝのみならず、国家に功が有るではないか』と云つたのに対し、叱呼して『子非知東c(静区)者也夫起兵作乱其源不一有背君父窺国家者有盗竊剽却毒害人民者有切歯奸邪悲憤激発者後素之挙雖由一時之憤激見其所為未可概為乱臣賊子也東c意謂大義滅親後素果謀反叛雖先事上変可也碩奸商閉糴官吏不問後素論争不用憤激挙事是其意本為民也吾豈忍乗禍自利乎然犯法弄兵罪在必誅坐視不救非義也故極諌不聴乃曰事至此固亦弁一死其従容就義自処者審矣非徒於死也』と断じて、大塩にも若干の同情を寄せ、更に『子不見近者西郷隆盛之叛乎其門人子弟数千人相率構煽以陥不義未甞有一人倚義極諌継以一死如東c者蓋武勇有余智識不足至死不覚也吾於是知東c所為仁之至義尽矣』と称揚せるはまことに至言と謂ふべきである。