Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.18

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「宇津木静区と九霞楼」

その4

森 繁夫

『人物百談』三宅書店 1943 より

◇禁転載◇


 一説、この際、が家郷に携帯した消息といふのがある、石崎東国氏の『大塩平八郎伝』は、天満水滸伝を引用して、次の如く伝へてゐるが、これを家兄に宛てたものとすれば、文中『御両親様奉始』とあるのが頗る怪しい、故は、静区の父久純は此年より十二年前に既に歿してゐる、あまりに巧妙過ぎて、却て非を暴露した偽書の悲哀ではあるまいか、尚この文には、介し難き條項二三数へるものがある。

静区の遺書を、しかと肌身につけて、竊にこの危域を脱出したは、後に当時を追想して『己而正一刃先生。先生従容伸頸受之。未殊。尚不忍去。先生瞋目大声叱之曰。去去。鳴乎声尚在耳。而竟為永訣矣。哀哉。』と云ひ『乱定。請官而葬得屍於兵燹中。其傍数尺烈不及。故其支体不少爛。如有天祐者。』と、聊か満足の意を表してゐる、その劇的光景真に目睹するの感がある、『静区路史墓』と題せる一墓の墓標の下に先塋に隣して葬られたことは、せめてもの頼ひといふべきであらう。

 実にこの際に於ける白面の一青年、十八歳になつたばかりのの存在は、静区の人物全部を白か、黒か、に截然と判ぜしめる有意義のもので、若しにして其遺書を附託せらるゝなく発表せらるゝ無かりしならば如何、静区の思想及措置は、遂に永久に葬られ、限りなき恨を地下に呑むべきであるのみならす、延いては徳川譜代の藩に重職を帯べる、家兄の身上にも亦その悪果を及ぼすべきであつた、世間此種真相の知らるゝなく、寃に泣くもの数限りもないことであらう。史乗の軽々に速断しがたき、思うて惧れざるべけんやである。紀州の碩学倉田袖岡*1は静区を賛して

といひ、依田百川は、在人の『静区が彼の際に、伴つて大塩に従ひ、急を上告したならば、啻に禍を免るゝのみならず、国家に功が有るではないか』と云つたのに対し、叱呼して『子非知東c(静区)者也夫起兵作乱其源不一有背君父窺国家者有盗竊剽却毒害人民者有切歯奸邪悲憤激発者後素之挙雖由一時之憤激見其所為未可概為乱臣賊子也東c意謂大義滅親後素果謀反叛雖先事上変可也碩奸商閉糴官吏不問後素論争不用憤激挙事是其意本為民也吾豈忍乗禍自利乎然犯法弄兵罪在必誅坐視不救非義也故極諌不聴乃曰事至此固亦弁一死其従容就義自処者審矣非徒於死也』と断じて、大塩にも若干の同情を寄せ、更に『子不見近者西郷隆盛之叛乎其門人子弟数千人相率構煽以陥不義未甞有一人倚義極諌継以一死如東c者蓋武勇有余智識不足至死不覚也吾於是知東c所為仁之至義尽矣』と称揚せるはまことに至言と謂ふべきである。


管理人註
*1 倉田何庵。


『天満水滸伝』その18


「宇津木静区と九霞楼」目次/その3/その5

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ