森 繁夫 『人物百談』三宅書店 1943 より
◇禁転載◇
次で、渙卿はまた鶴洲に属して一文を求め、鶴洲すなはち之に跋を加へた。
予頃与彦藩平共甫過三津松田酔樵九霞楼主人乃忻然欸待亦厚矣而請其十二景之序于平君平君卒爾閣筆予観之往々以議論而能発人之所未道蓋其筆力与斯楼之勝相敵亦奇才也 况其七言律体雅澹穏当一章而十二景具矣而酔樵之喜不言而可知耳然又乞予曰順今因禅師而得謁先生且獲賜其詩及序請師亦為之加一語予請志則嘉矢独奈何予桑門之人文字固非所宗雖然無己則敢一言子為市正治其家余力及文是亦足矣而共甫之所謂察人情事変者雖固酔樵之志今搗而新文則不啻詩辞風流愈有所補於酔樵歟不知以為如何(子下脱世字)
天保乙未四月下浣 千秋鶴洲長杜多跋 印 印
その同日であつたが否かは知らず、静区は、別にまた九霞楼十二景を歌に詠み、之を一景一葉の短冊に揮毫して九霞楼に留めた、その和歌の師承など知るべくもないが、文才縦横の静区として、この風詠あるは敢て異とするに足るまじく、或は、この他にも詠歌の伝はれるものなしとは限らない、この十二枚の短冊は全部完備し、封皮(渙卿の子松田次郎右衛門に宛てたる文書を裏返せる紙)の表面には、渙卿の筆蹟と思しく「短冊十二枚、九霞楼十二景詠歌、天保六年乙未四月廿九日詠子九霞楼、近江彦根藩、宇津木俵二靖 号不息居士」と認め、叮重に保存されてあつたが、其後諸所に離散し今、筆者の視界に儼存せるは、左の七葉のみで、残りの五葉の消息は不明である、其一葉にても知る人あらば題と歌とを示教に預りたい、恐らくは短冊として、珍中の珍に属するものであらう。
洲崎帰橈(一)
味鴨の あさる程だに 打籠て すさきに寄する 千船百船 不 息
母居朝暾(三)
富士とみし 名たゝる程か 昇日の もこ島山の 雪のあけぼの 不 息
盥浦残月(四)
起出て 朝とくくちを すヽけはか 誰みたらひの 浦の月影
不 息
豊山杳靄(七)
詠やるさ ×にいとヽ 春霞 其まゝ出る とよの山のは
不 息
査嶼観魚
みつしほの さすや査島の 夕栄に 網のめもれて 魚の飛みゆ
不 息
清水花(十二)
咲花の 齢も長し やまの名の 清水かれせぬ 例なる蘭
不 息
蒼島風濤
蒼しまの 岸うつ波の 色みえて けふは釣する 船たにもなし
不 息
「大塩の乱関係論文集」目次