Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.5.3

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大塩の乱関係論文集目次


「『浪華異聞』を読んで」

その4

向江 強

大塩研究 第20・21合併号』1986.3 より転載


◇禁転載◇

 姦通とは「男女が道徳や法に反して情を通じること。また、特に夫のある女が、他の男と情を通じること」(『日本国語大辞典』)とあって、大塩平八郎が仮に密通していたとした場合、前者の意味で男女が道徳や法に反して情を通じたのであるか、或は特に有夫の女との密通であったのかがまづ問題であろう。このことを判断するためには、格之助とみねが正式に夫婦関係をもっていたか、つまりみねは格之助の妻若しくは妾(この場合の妾は内縁の妻の意であるが、江戸時代妾とは単に奉公人にすぎなかった)であったことが確認されていなければならない。幸田成友はみねを格之助の妾とし、宮城公子氏は妻(日本の名著『大塩中斎』)としている。若しみねが格之助の妻であれば、幕府の許可が必要である。裁可されているのであれば「裁許書」は格之助妻と好通に及んだと書いたであろう。とすればみねは格之助の妾である可能性がつよいが、幕府はみねを格之助の妾ともいっていない。ただ「内実養子格之助え可嫁合約束にて養置候摂般若寺村忠兵衛娘みね」とのみいっており、ゆう、みね、岩蔵、忠兵衛、図書などの評定所申口とも一致する。

 妻でもなく、妾でもない者と密通したとしても法的責任は問いようがなく、単に将来嫁にしてやろうというロ約束があったのみであるから、道義的責任を問われるというにすぎない。但し嫁にするという約束をした。いわゆる「言名付」も縁談が成立しているとみなし、これと情を通じた時は密通とみなされるという説もあるので一概には言えない。ちなみにみねが大塩邸に入ったのは、天保元年十才の時であり、弓太郎を生んだのは天保七年十六才であった。ところがみねが弓太郎を生んだという事実は動かすことが出来ないのであるから、みねが格之助の妾であるというのが社会的にも認められていたとするなら、幕府は格之助妾みねと密通に及んだと言ひたてたであろう。その方が平八郎の名誉をきづつけるという目的からはより効果的である。

 ところで弓太郎が格之助の子供であるとする説は、その理由をつぎの様にあげている。(坂本鉉之助、幸田成友など)

その一
 忠兵衛が黙っているはずがない。もし「言行不似合の儀俗人にも劣り候振舞」と忠兵衛が思ったのなら、身命を抛って徒党に加わるはずがない。

その二
 格之助とすれば、妻となるべき(妻でなく妾となるべきが正確か)女性を養父に奪われ、平然と養父に仕えるなどということはありえず、まして肉親の父子も及びがたき情合で最後まで養父と離れなかったことを考えれば不倫一件は捏造にすぎぬ。

その三
 平八郎の弟子たち二・三人に問い合せたがすべてそんなことはないと答えた。

 以上であるが、いづれも有力な論拠である。しかし、忠兵衛は平八郎個人の行状と、社会的大義による行動とを区別し、後者をより重視して自己の行為を律したか、或は評定所申口の如く常に平八郎の権威に恐伏していたのでとかくの返答はしなかったとも考えられるし、格之助も忠兵衛同様に考えたか、若しくはみねよりも宮脇志摩の娘いくを将来の嫁としては好ましいと思っていたかも知れない。坂本鉉之助は「咬菜秘記」で平八郎の弟子に聞き合せたりしているが、弟子という点では安田図書が塾中にあって反対の証言をしているので決定的な論拠とはならない。

 幕府側の判断即ちみねは格之助と夫婦関係にあったのではなく、その約束で養育しつつあったという事が事実でなく、若し、みねと格之助が社会的にも妾として公認されており、弓太郎は格之助の子であることが世間へも称されていたというのなら、幕府側の主張は、全く崩れさってしまう。みねが格之助の妾として夫婦関係をもつことの社会的な披露などがおこなわれた(正妻ならば当然婚儀がおこなわれた)とは考えにくいのでこれを立証するものが存在するとすれば幕府側の虚構はかなり明白となるであろう。いづれにしても不倫一件は疑問の点が多い。

 『浪華異聞』についてはまだまだ書くことを残しているが紙数がつきた。一日も早く大塩事件関係の資料が公刊されることを希んで筆を置きたい。

     一九八六・一・一八
       (寝屋川歴史科学研究会)


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