Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.29

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔四〕
その6

向江 強

大塩研究 第43号』2001.3より転載


◇禁転載◇

(六)

 最後に、相蘇一弘氏の最近における画期的な大塩研究を紹介することで責を果たしたい。相蘇氏は、一九九九年『大坂の歴史』54号で「天保六年、大塩平八郎の『江戸召命』について」を発表し、次いで二○○○年渡辺武館長退職記念論集刊行会編『大坂城と城下町』(思文閣)に「大塩平八郎の出府と『猟官運動』について」を公にされた。  両論文は、いずれも従来の大塩像を根本的に見直す視点の提示という点で画期的である。時期的には、 猟官運動にかんするものが先であるから、それからまず進みたい。

 相蘇氏は、「はじめに」でこの論文の大意を説明している。まず大塩の挙兵の原因について、種々の噂が流れたが、このうち幕府に登用されぬ不満からとする説は、天満組惣年寄今井克復の談話(明治二十五年の「史談会速記録」第六輯)によっているとし、今井は、「大塩は辞職直後に高井実徳を追って江戸に行き、猟官運動をしたが果たすことができず、 その不満から乱をおこした」ものとしていたとする。 この今井説については、幸田成友が否定して以来、積極的に議論されてこなかったが、仲田正之が「大塩平八郎建議書」(平成二年)の解説で積極的な支持説を打ち出し、同時に大塩の林家への千両の調金も不正無尽によるものだとの説を展開したことにより、これまでの「清廉潔白」「言行一致」という大塩のイメージを変える大きな問題が提起されたとしている。この仲田説は大きな影響をあたえ、研究者や、朝日新聞の解説記事などにもそれと見られるものが現れたとしている。本誌で筆者の論争相手となった秦達之氏も例外ではない。

 相蘇氏はこの今井克復説を詳細に検討している。詳しくは、本文によっていただくほかはないが、今井説は、高井が「参府を申付られた」のでも「以て の外にシクジッ」たのでも「西の丸の御留守居」に なったのでもなく、根底から崩壊せざるを得ないものであったと論証している。また大塩辞職の時期についても今井談話は史実とことなっているという。さらに大塩出府のの時期は今井説では高井の参府直後でなければならないが、大塩の行動日程を書簡などから調査すると、大塩は辞職した文政十三年の秋から冬にかけて江戸にはいっていないことが明確だとする。また今井の江戸からの帰りに富士登山した というのも時期的に無理であり、大塩が『洗心洞箚 記』を富士山の石室に収めたのは天保四年七月以外には考えられないとしている。次いで相蘇氏は、 『大 塩建議書』所収の「長尾才助書留」を検討し、同史料が推測や伝聞にもとづくものに過ぎない点を論証し、大塩が天保二年春、江戸へ短期間ではあったが出府していた事実を検証している。

 相蘇氏は、大 阪市立博物館所蔵の大塩から佐藤一斎にあてた三通の書簡を一巻に表具した書状巻の奥書にある嘉永四年六月の一斎の書や名古屋本家所蔵文書の天保四年四月六日付け当主波右衛門宛の書簡などの検討から、 大塩の同年三月の江戸行きは明らかであり、その目的は林述斎と無尽問題等で秘そかに話合ったのでないかと推定している。かくして猟官運動に狂奔したとする今井説は、完全に否定され、また大塩上昇志向説も次ぎの相蘇論文でとどめを刺されることになる。

 相蘇氏は、「天保六年、大塩平八郎の『江戸召命』 について」において、大塩が多くの人々に再仕官しないことを宣言しながら、幕府への登用を喜ぶという態度は、日頃の大塩の言動と矛盾するものであるとし、さらにこの一件が蜂起の遠因になったということであれば、彼の人格の理解を複雑にするとの観点から、この問題を検討している。

 相蘇氏は、まず「大久保忠実の江戸召命」説の出所を検討する。一つは石崎東国『大塩平八郎伝』、つぎに徳富蘇峰の『近世日本国民史 文政天保時代』、さらに岡本良一『大塩平八郎』、また自説『新修大阪市史』についても触れ、大塩の天保六年江戸召命一件が通説通りならば、二つの点で重要な問題を含むとする。一つは大塩の日常の言動との矛盾であり、二つは天保六年の江戸召命が立ち消えになって大塩は失意し、これが後年蜂起を決意させる原因の一つになったのではないかとされる問題だとす る。

 その上で、石崎が根拠とした二通の大塩書簡について検討を加えている。結論からいえば、この二通の書簡からは、大久保忠実による人材登用ではない可能性の方が高いとしている。

 そして、この十余年の間にこの一件に関する大塩書簡を新たに七通収集することができ、その結果、これまで不明であった多くの部分が判明し、大塩江戸召命の真相を明らかにしえたとしている。それによれば、「大塩が古賀大一郎に出した天保五年九月五日付の書簡で『茲十四五年已来聖堂御教化之申分、 心性修正、政事練達、忠義鉄石之俊士偉人者誰々薫陶逐出いたし公儀之御為ニ相成候や(中略)其姓名御面倒なから御聞せ可被下候』と書き送ったことが、 昌平黌がいわゆる寛政異学の禁で朱子学以外を排除する江戸幕府直轄の教育施設となったのは寛政九年(一七九七)であるから、『茲十四、五年』のことは全く朱子学の責任に帰属するわけで、彼らは大塩が『人材が出たというのなら名前を挙げてみろ』と言ったことを昌平黌と朱子学に対する侮辱と挑戦と受け止めたのである。『怪しからん、江戸に呼んで釈明させろ』ということになり、問題は老中をも巻き込む騒動に発展したのであろう。」と解明して見せたのである。ここで古賀大一郎とは、古賀精理の長男穀堂の息子でのちに佐賀藩の儒臣となった人である。相蘇氏は最後に、「大塩は幕府から登用されるとは決して思ってはいなかったのである。従って、 天保六年の江戸召命一件は大塩が蜂起を決心した原因とは全く関係がない」と結論している。

 私と秦達之氏との論争に対しても、相蘇氏の今回の二論文は、決着をつける決定的な意味を持っている。恐らく相蘇氏の研究は、最近の大塩研究にとって画期的且つ最重要の意義があり、相蘇氏にしてはじめてなし得た業績であろう。相蘇氏が長年にわたって収集されてきた大塩書簡をはじめとする史料がいま力を発揮する時期に至ったというべきであろ う。氏による大塩書簡集の早急な刊行が望まれるのである。

 大塩は通史でどう描かれたかという問題は今回で一応終了することとしたい。あと単行本での大塩論を検討すべきであるが、別の機会としたい。

      (二○○一・二・一)



 Copyright by 向江 強 Tsuyoshi Mukae reserved


相蘇一弘『天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について』


「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔四〕その5

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