Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.26

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔四〕
その5

向江 強

大塩研究 第43号』2001.3より転載


◇禁転載◇

(五)

 次に検討したいのは、思想史における大塩観である。一九七六年、山川出版社から体系日本史叢書の内、石田一良編『思想史U』が出版された。大塩については、第二章江戸時代の思想、U文化・文政期の政治と思想の多様化、のなかで論ぜられている。筆者は三宅正彦氏である。三宅氏はこの節で「陽明学の意義」「陽明学派の左派と右派」「日本陽明学の右派的本質」「佐藤一斎の君臣観」「人事と気運」 等の各項について論じたのち、大塩中斎の思想と挙兵について述べる。まず三宅氏は、大塩中斎の帰太虚説について朱陽を折衷した、陽明学右派の線上に位置する思想的態度だとしながら、実践の直接性という点ではいちじるしく陽明学左派に接近し、これをこえるとしている。中斎にとっては、社会的問題は、そのまま主体的課題であり、朱子学か陽明学かは問題にならず、ひたすら道徳実践につとめるのが、 儒教の徒たるにふさわしい者とされたという。また中斎においては、公の私に対する徹底的支配を肯定したことで、幕藩制国家の思想的原理たる主従性原理の家父長制原理に対する優位の立場はその極点に達したとされている。

 中斎の挙兵については、「至公であるべき大坂町奉行所の役人が奸商と結びついて悪をなすことは、中斎にとって、自己一身のうちに悪が生じたことと同一である。その悪を挙兵という実践によって克服しょうとすることも、実践の直接性を重んずる中斎にとつては、論理の当然であつたろう。学説的系譜からいえば陽明学右派に属する中斎は、陽明学左派のだれもがなしえなかった国家に対する事実上の反逆を身をもって実践しおえた。」としている。しかし、ここで二つの問題が残るという。第一は反逆の主観性であるとし、徳川家の支配の肯定と東照神君への讃仰は、放伐説おいて「仁を賊ひ義を賊ふ」の四字を自省の材料とするだけで、事実上、君主の打倒に賛成しない態度と共通するとした。したがって、「中斎は、諸役人の不正を伐つ体制内的改良を意図しただけで、幕藩国家に対する反逆として挙兵を意義づけてはいなかったであろう。」といい、ただ中斎のめざしていたものが、東照神君の御政道への復帰ではなく、神武帝御政道への復帰、堯舜天照太神の時代を理想とするものであったことから、「大飢饉のなかで幕府権力の矛盾・限界が露呈され、その総領主的機能をこえる道を、天皇の伝統的権威を媒介に模索していたのではないか。」としている。さらに第二の問題として、″上から向かう″論理をあげる。一揆蜂起の企てとは異なるとしたのは、下からの人民的行動と同一視されることの拒否であり、人民の困窮を救うために、上から支配内容を改良することによって果たそうとしたとする。人民的行動もまた私として否定され、挙兵は放伐説の実行である。そして「中斎の論理と行動が、被支配者の立場からでなく、支配者の立場から規定された」ものとしていたのである。



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「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔四〕その4/その6

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