Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.13

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「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
その4

村 上 義 光 (1916−1992)

『郵政考古紀要 第13号』1988.6 より転載

◇禁転載◇

(四)慶安元年に任命された城付与力人名

 慶安元年に江戸で任命され、大坂城に赴任した人名及びこれ以前の与力名迄明確であり、これらの諸家が明治元年まで、約弍百弍拾年間連綿として世襲していて、次後の大坂諸役人武鑑でも確認し得るものである。

 『与力歴譜同附録』に、

「(慶安元年)八月十二日弾正忠殿家老保科隼人を以、被仰渡候者昨日被為召先日候与力親類書、御旗本ニ親類書、御旗本ニ親類無之茂相見候、大坂御城付ニ被仰付与力之儀ニ候間、御旗本親類無之面々者、可被除候」

とあり、山田勘右エ門・堀太郎左エ門・田合又四郎・後藤金左エ門・田村勘左エ門の五人が不採用になったと不採用者の氏名が明記されている。

 尚此の時に江戸で任命され、大坂城に赴任した弍拾騎の城付与力(玉造口)の人名は左の通りである。

 『与力歴譜』にある「慶安元年八月、大坂城付与力被仰付人名」によれば

「久保八郎左エ門・久松権兵衛・倉林勘兵衛・米倉次右衛門。中山武兵衛、間瀬又兵衛・布下仁兵衛、家田源右エ門・石川半右エ門・佐藤孫左エ門・松山与右エ門・朝比奈二郎右衛門・坂本武右エ門・村井喜左エ門・篠山金左エ門・小嶋源五左エ門・小野伝左エ門・小宮山権右エ門・高山伝八郎・村井喜左エ門・山守作右エ門」

と書かれている。そして又、慶安以前よりの大坂城付与力の九名の人名も記録されているが、此の九名の与力の赴任の時期、及支配関係等については残念乍ら不明であるが、此の九名と新規弍拾壱名で計三拾騎の定員となっている、同『与力歴譜』に

「田口五郎兵衛・原次兵衛・高橋伊兵衛・小林杢兵衛・脇次郎兵衛・坂都(カ)流部左衛門・西亀八右衛門・八十原平太夫・垣屋平右エ門」

の九名が慶安元年以前よりの城付与力と明記されている、次で江戸にて召抱への新規与力は(慶安元年)八月十八日、浅草御蔵にて扶持米請取、 同八月廿二日赴任道中費用受取同八月廿三日、弾正忠、江戸発駕に扈従して大坂に赴任し、同年九月五日大坂に着任している。次後此の城付与力達は、明治元年の江戸幕府瓦解まで、幕府の城、大坂城の武力の中核として行政とは無縁の形で、専ら武術の修行と城門の衛戌に終始している。但し元禄以後の太平無事の時代には、無用の長物的な存在の感もあり、僅に「天保八年の大塩の乱」に、玉造口与力、坂本鉉之助や本多為助等が本来の軍人らしい働きを示しているのが、唯一の動きである。


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