Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.10

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「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
その3

村 上 義 光 (1916−1992)

『郵政考古紀要 第13号』1988 より転載

◇禁転載◇

(三)定番与力の出自等について

 城代与力(当初の)出自、人名等を明確にし得る資料として、次の二資料がある。

(イ)『与力歴譜同付録』(大阪市立中央図書館蔵写本)(註)本文書は玉造口定番与力を中心に記録されているもの。

(ロ)『定番玉造口与力・久松家文書』(島野三千穂氏蔵)(註)本文書は総点数四十七点で城付与力の家譜、家史関係の史料として初見の貴重な文書群である。尚この久松家文書については『大阪城天守閣紀要』(第十四号第十五号)に、「大坂城玉造口定番組与力久松家文書(一)(二)」に村上義光・島野三千穂で紹介、発表しているので参照されたい。

 但し、京橋口定番与力については、右二編の如き有力な資料は未発見であるが、京橋口定番制度化は、玉造口定番制と同時につき、詮考基準等は当然同様であったと考へて差支へないが、尚今後の資料発見を待ちたい。

 尚、城付与力(玉造口与力)の出自・選考について、次の資料を紹介する。

『与力歴譜同付録』に

「慶安元年、大坂御定番被仰蒙、此時始而御城附之与力三拾騎・同心百人被仰付・御預ケ被成候。依之元組与力・同心之外ハ新規ニ与力弍拾騎・同心八拾人於江府被召抱、元組共ニ与力三拾騎同心百人と都合也。(与力切米八拾石・同心切米拾石三人扶持)一、七月十八日新規与力拾八人(註、補充三名後日決定)・弾正忠殿へ目見相済・太刀目録・同心八拾人も同日目見」

とあり、新規二拾騎を加えて、壱定番与力三拾騎・同心百人の定数が制度化された、従って此の定数が、明治元年の徳川幕府瓦解まで、約弍百弍拾年間固定不変の員数であった。又此の城附之与力の選考については、江戸幕府旗本の親族から選出し、吟味の上、これに不十分な者は除外されている、此の選考基準の出自が次後、城付与力は、譜代扱(御譜代席)となり、町方与力の御抱扱(一代限りの卸抱席)より、一格上の身分を誇示する原点となっている。この点について『久松家文書』に次の如き注目すべき記事がある。

(イ)「一、寛文元辛丑年、両御定番・保科弾正忠殿・安部摂津守殿御役御免の御代・石川播磨守殿・板倉内膳正殿卸登之節・於江戸被 仰渡候は、大坂御城付両組之与力は御譜代同然に被為思召候旨被 仰渡候に付、然上ハ跡式之義縦へ当歳に而も男子に候者、可申付旨被仰付候処、尤之由被仰渡候間、何共難有可奉存候旨、播磨守被仰渡候事」*1

(ロ)「一、西町関根氏旧縁にても有之候哉、御尋被仰下承知仕候、元来御存知被下侯通、町組は一代切之御奉行人故、格式違申候ニ付、女之縁組にても旧縁無くては、縁組仕候義無之候」と記されている。*2

 村上義光・島野三千穂「坂本鉉之助の有る書状」『大塩研究』十七号、および村上義光・島野三千穂「玉造口与力久松氏と大塩事件」『大塩研究』 十九号など参照されたい。


  Copyright by 村上義光 Yoshimitsu Murakami reserved


管理人注
*1 村上義光・島野三千穂「史料紹介・大坂城玉造口定番組与力久松家文書」その12
*2 村上義光・島野三千穂「史料紹介・大坂城玉造口定番組与力久松家文書」その17


村上義光・島野三千穂「玉造口与力久松氏と大塩事件
村上義光・島野三千穂「史料紹介・大坂城玉造口定番組与力久松家文書


「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
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