Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.17

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大塩の乱関係論文集目次


「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
その5

村 上 義 光

『郵政考古紀要 第13号』1988.6 より転載

◇禁転載◇

(五)大坂町奉行及び町奉行付与力について

 大坂町奉行所は、元和五年に始めて設置されている。同年幕府は、淀城においた畿内・西国に対する軍事拠点を大坂城に移し、譜代大名に城代・定番・加番を命じ、戦後の(大坂の陣)軍備えの固めると共に、大坂三郷等の町政に対しては大坂両町奉行所を置き、民政に当らしめている、其の町奉行に任命される武士は、当然徳川直参旗本で、概略千石前後から三千石の言うなれば、エリ−ト官僚達で、町奉行補佐と同時に、大名並の従 五位下に叙され、何々の守と任官せしめ、そして其の配下の与力同心によって其の任務を遂行する(東西両奉行所共、与力三十人 同心五十人)

 江戸幕府の初期においては、当然の事ながら幕府も諸藩も、軍役が最重要の任務であり、民政(町奉行等の業務)は一段も二段も低く見ていた事は城代・定番・加番の身分と町奉行の身分差・禄高差からも判然としている。従って町方与力の出自、採用基準は前述の城与力に比しゆるやかなものであった事は推定し得る。結果家督の相続についても前述の如く、城付与力は世襲の御代席扱で、町方与力は一代限りの御抱え席であり、此の身分差、格式差が町方与力の城付与力に対する負目となっていた事は否めない事実である。


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