Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.20

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大塩の乱関係論文集目次


「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
その6

村 上 義 光

『郵政考古紀要 第13号』1988 より転載

◇禁転載◇

(六)城付与力との町方与力の職務感

 城付与力との町方与力の職務感、処生感等の相違を顕著に示す、町方与力大塩平八郎と城付与力坂本鉉之助の見解を左に紹介する

(イ)「大塩平八郎の佐藤一斎氏に寄するの書状」(天保四年五月。)(石崎東国著『大塩平八郎伝』P一三二)「・・・・・・以テ今ニ至ル、李子乃チ大坂ノ市吏トナル、コレ即チ我ガ祖也、僕是ニ於テ概然深シ、刀筆ニ従事シ獄卒市吏ニ伍スヲ以テ恥トス・・・・・・」(原文漢文)

(ロ)坂本鉉之助『咬菜秘記』及び石崎東国『大塩平八郎伝』P五四に

偖申には貴兄(坂本鉉之助ヲ指ス)は御城附の与力にて武役専一の御方、僕は(大塩平八郎自身)は町与力にて獄吏なれば、平日の公務は甚懸隔したる事に候得共、何事ぞと申節は御城附は勿論、獄吏の僕等迚も皆一同に此御城を警衛して、西三十三ケ国を押へ申より外は無之と存候、左様の節に至ては貴兄の御頭樣は万石以上の諸侯に候へば相応の家臣等も有之、戦場の用に相立可申欣、是迚も一概当てには成不申、又僕が頭は三百俵や五百俵の小身にて譜代の家臣迚も無之、多くは役中だけ平常の公務に馴れたる者を家来に雇入候事故、何ぞの節には一人も当には相成不申、左様の節急度此御城の一方をも堅固に警固致す所の御工夫は如何候哉、貴兄は御城附の御勤なれば猶更御工夫可有之候、さあ其御工夫如何々々と尋る故、差当何の工夫も無之、今日弓を射、鉄砲を打、其外鎗剣等武技の稽古を心掛候は、皆其節の用と存候と答へければ・・・・」とあり、

 誌面の限定もあり、右二点の紹介にとどめるが、大塩程の人物にしても、庶民に接する重要な町奉行所の中核たる町方与力職務を、武士本来の任務よりは軽いもの、と極言し「恥ずべきもの」と迄、自虐的な言辞を弄しているのは、注目すべき点である。大塩自身の学識・能力から、より高度な辞世への政策、実施への自負と自身が、反面強固な身分制による職務権限の壁に圧殺される。其の焦燥感が此の自虐的な言葉となったとも思へる が、大塩さんにも内在しての結果の言とも思へる。

 他方、城付与力坂本弦之助の言は、大塩の非常の変に際しての備ヘ、工夫はとの問に対し、実に簡単明瞭、

何の工夫もこれ無し、今日弓を射、鉄砲を打ち、其の剣槍を稽古するのみ」と城付与力は市政・庶民とは無縁の職務であり、恬然と世相の変転の埒外にあって、只武人本来の武術の鍛練と大坂城警固に専念、これに安住している姿勢が率直に感じられる。

 この事が、同じ大坂の地でありながら、(天保八年の)大塩の乱時、城付与力六拾騎同心弍百名の層からは、壱名の共鳴者も、参加者も無かった事は注目すべき事実である。只僅かに城付御弓奉行配下の同心・竹上万太郎と定番玉造組与力大井伝治兵衛の忰正一郎が参加しているが、正一郎は乱数年前、粗暴不行跡の理由で大井家より勘当除籍されて居り、乱後の処理としての勘当ではなく、幕府吟味書にも姓はけずられ、無宿正一郎と記されている。*1

 因に町方よりは、与力四名同心七名計拾壱名の多数が、乱軍の中心となって参加している。

 この如く、城付与力と町方与力の両者は、身分格式、職責、処生感等によって、明確に一線を画した相違点を持っていた事が感じられる。


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管理人註
*1 「咬菜秘記」その51では、乱後、周囲の配慮で、久離が乱以前のことであったように繕った様子がうかがえる。


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「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
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