村 上 義 光 (1916−1992)
『大塩研究 第23号』1987.12 より転載
彼が大塩の挙に対し激しい共感と幕政批判の胎動を示す顕著なる点を二、三例示する。
(1)大塩の軍旗文字から、〃綸旨〃(天皇の命)による行動
との飛躍的発想
『大塩騒動の書』中の記事に
「丸ニ二ツ引之鎮壱本、桐のとうの籏壱本、天照皇大神官の籏壱本、ようめいせいおうとも書有之籏壱本、是ハ綸旨之代を致文字ニ候由。右文字ハ不見受候へ共、大方世明清皇と書有之候哉、乍推量書置、〆旗五本大塩平八郎東照宮ニ被立置候よし」(以下略)
と書かれているが、この記事は彼の思想傾向と大塩の義挙に対する共感を示す重要な記事である。
大塩の行軍に用いた籏は数多い伝聞書本にも、五種の籏が記され、その内左面の物は二種あって、(A)の標記の方が多いが(B)標記の物も二、三発見されている。
彼が伝聞したものは、(B)の方であったかと思えるが、陽明聖王⇒ようめいせいおう⇒世明清皇⇒綸旨。
この伝聞の軍旗文字から中世以来絶えて久しい、〃綸旨〃(天皇の命令)と読み取る発想は彼以外にはなく、前述の南山城地方の土壌に育ったものでなけれぱ発想し得ないものであろうし又、大塩の挙は日本徳化統治の天皇の命で起したもの故に大塩の挙は正しい、との意を表明しているものとみられる。
(2)『大之坂神鑑』について
大塩畢生の気塊が奔る檄文(幕政改革と救民の趣意書)に鉄蔵が附した標題が、『大之坂神鑑』である。彼が筆写した元の檄文(写?)をどの様に入手したか経路は全く不明であるが、檄文に関連する彼の記録書きを描出すると『大塩騒動の書』中に次の記事がみられる。
「河州津田又ハ近在村々へ落文致ス、川向イ天神森江も、はだかにて二人持来り家端の貧家人弥兵衛ト云う方江、ほり入レ何くへ帰り候哉、不相知、右ふみハ真字ニ而はんにてすり出候由見受不申候へ共、案文人噂ハ近道ニ申候ならひ今之禁帝様ハなけかハしい、今の天下ハ治め方甚悪敷(略)案文長ク有之候由ニ候へ共近道を聞記置儀也」
ここでは「見受ケ不申候へ共」と自分ハ見ていない、見た人の噂を聞くと此の様な事が書かれていた様であるので、そのあらましを記し置くと断り書きをしながら、実はこの檄文を丁重に清写。難読の字句には丁寧にルビを附し一冊の綴本としその標題に『大之坂神鑑』と大書している。彼の写本を檄文正文と言われる『成正寺檄文』と対照すると、脱字、脱句のか処も少しあるが写本が書写であれぱ已を得まい。尚又檄文記事中の左の文意に対し、
「爰ニ弐百四五十年大平之間に追々上たる人、驕者とておごりを極メ大切之政事ニ携り候諸役人共、賄路も公ニ授受とて贈貫致し(以下略)」
彼の『大塩騒動の書」には
「今の天下ハ治め方甚悪敷勝利ニ而も袖之下を不遣候ハバ負けとし、袖の下賄賂等を遣し候ハバ負けなる ものをかちとしい甚治め方悪敷」
と檄文記事には単に「大坂の政事ニ携る役人共が賄賂を公然と援受する」とあるのみだが、彼は「賄賂袖の下によって、当然勝つべき公事も負けとなり、当然負けるべきものが勝つ」と檄文に書いてあるそうなと、一歩踏み込んで賄賂の補足の説明をしている点、あきらかに行政の腐敗を詰問している。
尚ここで特に強調して置きたい点は、鉄蔵が非合法の檄文を完全に書き写しこれを内密に所持、尚その上書写檄文に『神鑑』と標題する等の非法行為が、一旦為政者に知られたら間違い無く一家の存亡にも及ぶ危険この上もない行為で、「篠崎小竹の檄文所持による手鎖百日 *4」を思い合わしても大胆極りない所業であるが、それだけに彼が如何に大塩の義挙に、檄文に限り無い感動と共感を抱いたかを実に雄弁に物語っている。
尚檄文中に「日月星辰の神鑑」の字句が存在するが、この神鑑は多分に中国・インド古代社会に普遍的に見受けられる日・月・星・辰崇拝からのもので多分に儒教的陰陽道的「神鑑」であり、鉄蔵の神鑑は前述の綸旨感と同く日本古来の起講文等に書かれる八百万の神々の「神鑑」と筆者は考へている。
(3)大塩挙兵の原因についての鉄蔵の視点
彼は天保七・八年の京都庶民の飢餓の悲惨な状況を実にリアルに長文に記録し反転・大塩平八郎の救民策献策を具体的に列記(富商の諸藩大名への貸金停止による廻米増・欠所銀の一時流用による難民救済案等々)し、如何に大塩の挙兵が止むを得ないものであったかを見事に印象づけている。又後世、石崎東国 *5 や幸田成友らが、挙兵の因か、と取上げている点を、的確に鉄蔵も又とらへており其の判断力には驚く外はない。
(4)大塩処刑について
『大塩平八郎並徒党御仕置』の記事中に、
「大坂今宮の南に当り住吉江の道筋鳶田におゐて、天保九戌九月十九日ニ磔ニ相成、誠ニ存命のかたち無之、たとえばいなごの黒焼共、干物共難譬一向生体無之候へ共磔の柱にしぱり付、矢張鎗にてつき候由」
と農村青年らしい比喩で無惨非情の処刑を難じている、此の情景比喩の生々しさから見て、鉄蔵自身が処刑場へ出向き直接見聞したかとも思える。
最後にこの十二編二十余点の彼の記録書中、他の伝聞書の如き「不容易企」「乱暴人」「逆賊」「好賊」「公儀を恐れざる暴挙」「謀反人」等々、大塩を誹謗する言葉は一か所も使用されていない事を附記する。
参考文献(注)
*4 [大塩平八郎]幸田成友 二〇頁
*5 [大塩平八郎]幸田成友一〇三〜一〇四頁・[大塩平八郎伝]石崎東国二六四〜二六八頁。
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