さても大塩平八郎ハ彼の旅人と峠の半腹に到りし頃、旅人ハ、かたへの道
を指さして、此方へ行けば、聊かの近道あり、旅なれ給はぬ人々ハ、大に
損のある事なりと、往還を横切りて、道も無き所を四五町も行く程に、か
たはらの松の木陰より、雲つく如き大男、腰に一刀を横たへあらはれ出で
たり、
平八郎ハ何の心も附かず、行き過ぎんとする程に、かの旅人ハ、大男に目
くばせして、平八郎を呼び留め、両人左右に立ちはだかり、衣類大小此所
へ置きて行くべしと、大音声に怒鳴り立つるを、肝太き平八郎なれバ、少
しもさわがず、偖ハ汝等ハ旅人と見せかけ、往来の人を悩す山賊なるかな、
よし左もあらばあれ、我も両刀を帯したり、汝等如きに手込に逢はんや、
命を落さんより、疾く/\道の案内せよと、呵々と笑ひたり、若年と侮り、
此一言に両人とも大きに怒り、憎き小忰、目にもの見せんと、鷲の小鳥を
捕ふる如く、胸ぐらしかと捕へたり、平八郎自若として、其手を取り、ね
ぢあげて引きかつぎ、遥の谷へ打込みたり、
【図 略】
旅人となりし賊大に驚き、腰の一刀引き抜きて、切りてかゝるを、身をか
はし、刀持つ手を拳にてしたゝか打ちけれバ、刀ハはるかのあなたへ飛び
て、其身もそこにけし飛びたり、すかさず、平八郎飛び掛りねぢあげて、
刀の下緒をもつて、しかと引きくゝり、傍の松にぞ縛りける、彼の者ハ、
若年と侮りてありしに、今此力量早業に肝を消し、是れ人間にハよもあら
じ、此深山に栖める天狗かとあきれ果てゝ、言句も出でず、其時、平八郎
ハきつとにらみ、汝人界に生を受けて、鬼畜の行ひ成す、天何ぞ是をゆる
さんや、今速に首を刎ぬべき奴なれども、一命を助け置くなり、我が一言
を耳の底に止めて、悪念を翻し良民となり、天命を保つべし、已に一人ハ
天誅速に来りて、谷底の土となれり、是を見て其身の誡とするべしと、教
訓し、落ちたる刀を拾ひ取り、髻を根より切り捨て、足速に元来し道へぞ
引き返しける、
かゝる所へ、僕ハ取落したる品を獲て、道をいそぎ爰に来りて、平八郎に
と逢ひ、今まで此所に待ちたるを怪しみけるに、平八郎ハさあらぬ体にて、
旅人に別れしまゝ、汝を見うしなはん事を思ひて、爰に待ちたりとて、諸
共に前なる宿へぞ急ぎける、後に此事を僕に語りしに、舌を巻きて恐れい
りたりとぞ、
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