Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.10訂正
2002.1.24

玄関へ

大塩の乱史料集目次


『天 満 水 滸 伝』

その3

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


 ○鈴鹿の山中に平八郎賊を窘(たしな)

(さて)も平八郎は、予(かね)ての願ひ相叶ひ、東都へ下り、学問修行なさばやと、心に歓び、父母に別れて、遥々と吾妻の空へ旅立ける、

元来(もとより)、初めての旅といひ、急きて急がぬ途次(みち)なれバ、また見る事ハ兎も角も、名にし負ふ東海道の名所旧跡、此処彼処(こゝかしこ)と見物なし、物憂旅もうち忘れ、いと眺めある心地して、一人の僕を便りにて、悠々と道を歩み、急ぐともなくハヤ水口の駅に差掛りける、

然るに昼の程より同伴になりし一人の旅人あり、是も吾妻へ下る者とて、元来(もとより)東海道ハ数度往来せし由、平八郎にいと親しく噺しものし、始めてのお旅とあれバ御不案内ならんとて、此処彼処の旧地など懇切(ねむころ)に教へなどして打連歩行(あゆむ)に、平八郎ハ好同伴(よきみちづれ)得たりと、甚(いた)く歓び、途の労(つか)れも打忘れ、興あることに思ひて辿りけるに、其日もハヤ暮けれバ、今宵ハ此処に同宿し、一ツ座敷に打臥しが、頓(やが)て鶏鳴暁を告けれバ、然(さら)バとバかり此宿を、立出行\/て鈴鹿の山にさし掛りけり、

抑々(そも\/)この山ハ、其昔鬼賊の棲居して多くの人を悩ませしかバ、田村将軍勅を請て彼鬼賊を退治玉ひし旧跡なりとて、今に田村大明神と崇め祀りて、四時の祭礼怠りなく、いと神さびし霊社あり、樹木森々として昼なほ暗く物凄き山なり、

(こゝ)へさし懸りし折柄、伴ひし僕何やら、済ぬ顔持にて主人平八郎に申すやう、今朝疾(とく)かの宿を出立(たち)し節、粗忽にも風呂敷包みを失念せり、一走り往て取来らん、君には彼処(かしこ)の峠を越て前なる宿の建場にて待たまへ、忽(たちま)ち追付申すべし、とて、かの旅人にも言葉慌忙(せわし)く挨拶し、足速に跡なる宿へと引返しける

平八郎ハ、彼の旅人と倶(とも)に峠の半腹に至りしに、かの旅人ハ、指さして平八郎に言ける様、此方の道へ行く時ハ聊(いさゝ)か近道なり、旅馴玉ハぬ人々は、道を歩むに大ひなる損の有るものなり、とて、往還を横切て、かの近道へと這入けるに、平八郎も跡に附、悠々として歩み行しに、道なき所を分け\/て頓(やが)て四五町も来りし頃、傍(かたへ)の松の木蔭より、雲突如き大の男が、一刀横たへ顕れ出しを、平八郎ハ気も付ず、行過んとする程こそあれ、

かの同伴(つれ)になりし旅人と注目(めくばせ)しつゝ平八郎を呼留め、両人左右に立はたがり、小童稚(こわつぱ)、汝が着する処の衣類ハ勿論、懐中物大小までも残らず出し、我々二人に渡すべし、若又否まバ息の根止ん、と大の眼を怒らして、否と言バ忽地(たちまち)に、一刀両断になさんず勢ひ、然れど這方(こなた)ハ不敵の平八、是を聞よりカラ\/笑ひ、少しも騒がず、詞(ことば)静に、扨(さて)は汝等、旅人と見せ、往来人を悩して、飽こと知らぬ山賊よなもし、然(さ)も有らバあれ、我とても両刀帯せし武士の片破(かたわれ)、汝等ごとき手込に遇(あは)んや、若年者と侮つて可惜(あたら)命を落さんより、疾々(とく\/)道を案内せよ、と大音声(だいおんじやう)に呼はりて、泰然自若と扣へたり、

是を聞より両人の山賊、大ひに怒りて、目を剥出(むきだ)し、小童(こわつぱ)なり、と侮りしに、今の大言聞悪(にく)し、然らバ汝か望みに任せ、此世の暇目(いとまめ)に物見せん、と鷲の小鳥を捕へし如く平八郎が胸倉を確乎(しつか)と捕へて投んとする時、平八郎ハ、驚く体なく其手を取よと見てけるうち、忽地(たちまち)グツと捻揚(ねぢりあげ)て引担ぎさま、遥の谷へウンと言て打込だり、

旅人と見せし一人の賊、是を見るより大きに驚き、小童なりと心を落附、不覚を取しぞ残念なり、いで物見せん、といふより早く腰なる一刀引抜て、真二ツにと切込だり、

這方(こなた)は平八、事ともせず心得たり、と身を替し、刀持手を拳を固め、勢ひ込で擲(うち)けれバ、刀は飛て那方(あなた)へ飛散、其身も其処に伏たりけるを、透(すか)さず平八飛懸り、腕捻揚て早速の捕縄(とりなわ)、刀の下緒(さげを)で確 乎と縊り、傍(かたへ)の松の大木に縛り付しに、曲者は圧気に取られ胆を消し、小童と侮り、一討(ひとうち)と思ひの外の力量早業、這(こ)は人間にてハよもあらじ、此山に棲(すむ)天狗ならん、と只呆れ果、言句(ごんく)も出ず、夢かと斗り黙然たり、

案下(そのとき)平八、彼賊を、吃度白眼へ声高く、汝人界に生を得て、鬼畜に劣れる行為(ふるまひ)をなすを、争(いか)で天の免(ゆる)し玉はん、今其首を刎(はね)べきなれど、一命助け遣はせバ、今我いふ事を耳底に留め、今より悪念飜へし、良民となり天命を永く此世に保つべし、汝が党類の一人こそ、業因重く速かに、天誅来りて谷底の土となるこそ悪の報応(むくひ)、是等を見ても其身に取、好誡の一ツとなるべし、努(ゆめ)忘るゝな、と教訓して、落たる太刀を拾ひ取り、髻(もとゞり)掴んで根元より、弗(ぷつ)つと斬捨放ち遣れバ、其侭後をも見返らず、足速にこそ逃去けり、

斯る処へ、以前の僕ハ、彼取落せし風呂敷包を取得て、道を急ぎ来り、主人平八に礑(はた)と出会、今の今まで若旦那にハ此処に竚(おはせ)立しか、同伴(つれ)の旅人ハ如何せしと、怪しみなから問けれバ、平八郎ハ、然(さ)あらぬ体にて、然ればなり、彼の旅人(つれ)は此辺近所に寄る処あり、又々先にて逢見えんと別れし侭に、只一人汝を見失ひもやせんと、此処に先刻(さき)より待居たり、と語り出つゝ其先なる宿へとこそハ急ぎけり、

後に至りて、此事を僕に委く物語り、危険(あやうき)ことゝ話せしかバ、僕は聞より舌を巻、平八郎が行ひを、只管(ひたすら)(ほめ)て驚き、恐れ末ハ天晴なる人となり玉ハん、と頼母しく思ひけるこそ道理なれ、


『天満水滸伝』目次/その2/その4

大塩の乱史料集目次

玄関へ