Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.5

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「大塩中斎を憶ふ」その7

中野正剛(1886−1942)

『現実を直視して』善文社 1921 より

◇禁転載◇

 而して大塩中斎の所謂る社会主義的色彩は彼の一身の窮困より社会を呪咀して、自暴自棄的偏見を抱く者と、全く其類を異にせり。今日の所謂危険思想に流るゝ者、其境遇の同情すべく、心事の悲むべきものなきに非ずと雖、彼等の大多数は耽溺生活に身を持ち崩し、悲惨なる生活は益々其思想を病的ならしめ、果ては男女の道、朋友の交等に至りて、人倫を絶するは愚か、殆んど牛馬にすら劣るに至る。斯くて世に疎んぜられ、世を罵り、遂に自己胸中の幻影を以て実社会を律せんとするは妄なり。彼等が烏滸がましくも、社会組織の変更を説く、然れども彼等は一歩現実の社会より傑出して、社会の指導者たるべき資格を有せざるのみならず、現実の社会にすら生存する能はざる劣等の人格性行を備ふるを奈何。中斎を以て彼等に比較せんか、其差啻に雲泥のみならざるなり。大塩家元決して乏しからず、中斎に至りて勤倹至らざるなく、粗食に甘んじ、悪衣を恥ぢず、以て家道を修む。然れども平常人と交りて利慾に淡く、常に与ふることを好みて、受くるを屑しとせず。客の至るあり、什器書画の類に至るまで、苟くも之を賞讃するあれば、喜んで之を贈り、毫も吝む所なし。

 頼山陽が中斎の家に飲み、鴻雁の幅を称揚して、直ちに之を贈られ、長句を賦して謝意を表せしが如きは、単に其一例なれども、中斎が当時の学者より受けたる幾多の手簡を閲するも、高尚なる物品を、無頼者に割愛して、友人を喜ばしめたるもの甚だ多し。唯学問に傾倒せしだけ、書籍を受すること甚だしく、与力の微禄より門生の月謝に至るまで、余りあれば悉く以て書籍を購ひ、文庫蔵する所五万巻の多きに上れり。中斎は平素倹素なりしも、交友を援け、微賤を愍みたるを以て、偶々饑饉に際会して救恤を行はんとするも、瑣の余財を有せず、乃ち強て賑はさんと欲せば、秘愛の書を売るの外なきなり。是に於てか書庫を傾けて民の凍餒に代へんと欲し、書肆河内屋喜兵衛等を招き、蔵書全部を市に鬻がしめて六百二十五両を得たり。

 中斎大に喜び、割符を配して窮民を施行所に集め、毎戸金一朱を与へて、焦眉の急を救はしめたり。饑餓凍餒せる者、割符を持し、歓呼して集る者雲の如く、日未だ全く上らざるに、早くも金額を施与し尽したり。窮民等感激し、中斎の門前に叩頭して恩を謝する者、終夜踵を接す。奉行跡部山城守聞て憤ること甚しく、大に養子格之助を譴責す。嗚呼私財を傾け、学者第一の秘愛たる書籍を売りて、貧民を救助す、而も賞を受くるなくして、却て罪を得、天下豈に斯の如きの非法あらんや。中斎は格之助の被譴を報ずるを聴き、亦憤らず、相顧みて微笑せり、父子は暗黙の間既に意を決せしなり。一意既に決する所、火も亦涼し、中斎は陽明学によりて仁を求め、自ら信ずる所の仁を得たり、狂となし、賊となすも、彼の顧みる所に非ざるなり。


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