Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.12

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎を憶ふ」その8

中野正剛(1886−1942)

『現実を直視して』善文社 1921 より

◇禁転載◇

 天保八年丁酉の歳は、全国に亘りて饑饉極度に達し、京阪地方最も甚し。殊に京都の地は、四面繞らすに山を以てするが故に、運輸の便乏しく、年の餓うると共に地方よりの輸入殆んど杜絶し、秋に入りて王城の大路小路、餓の横はる者算なく、餓死流離する者五万六千人に達せり。併も大阪の城代は、京都に送るべき米を止めて、江戸に廻送し、益々輦轂の下をして、饑餓を甚しからしむ。是に於てか既に人民の窮困に泣き、奸商俗吏の冷酷に激せられし中斎が大虚の心霊は、更に勤王の至情に動かされて、高調勃発せざるを得ざるに至れり。中斎乃ち格之助に謂て曰く、有司人民に薄くして、将軍に厚く、皇室を畏れずして、幕府を憚るは何事ぞや、覇者政柄を執ること三百年、大義を忘れ名分を紊り、横暴底止する所なし。吾曹平常学ぶ所何事ぞ、愛民の至情を尽し、尊王の熱誠を傾け、斃れて已むに非ずんば、是れ学問の賊なりと。格之助大に感動し、共に義の為に死せんことを請ふ。乃ち庄司義左衛門、白井幸右衛門等と日夕謀議し、密かに同志を召集せしに、門人等踴躍して事に従はんことを請ひ、忽ち四十人の血判を得たり。此外士分以下百姓小前の味方、中斎に従ひて死せんことを希ふ者八百余人と称せらる。

 嗚呼士風頽廃し、諸民驕奢に流れし天保の衰世、八百余人を結束して死に就かしむるは容易の業に非ず。洗心洞中の講学と、躬行実践的教化とが、如何に深く人心に徹せしかを察するに難からざるなり。中斎が定めし洗心洞入学の盟誓中に曰く『忠信を主とす、而も聖賢の意を失ふべからず、若し習俗の率ゐ制する所とならば、学を廃し業を荒み、以て奸細淫邪に陥らん云々』と。習俗に反抗し、百川の東するに当りて、我れ独り道を重んじて西せんとするの気概想見すべきに非ずや、而して習俗に制せられずして、却て習俗を率ゐ、軽薄淫靡の大阪に、凛たる風霜の気を生ぜしめし者、中斎に非ざれば能はず。之を今日の不平者流が、口に社会主義を説き、文に革命的矯激の辞を竝べながら、内寡妻を服せしむる能はず、外朋友を信ぜしむる能はず、或は痴情の活劇を演じ、或は金銭上の争議を醸し、八百余人は愚か、一人の親交を有するなきに比せんか。中斎の如きは実に謀叛家中の徳行家と謂ふべきなり。


井上哲次郎「大塩中斎」 その15

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