Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.9.7修正
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大塩の乱関係論文集目次


「旧鴻池邸と大塩事件のルポ
『浪 華 市 奇 火 災 見 聞 之 記』

――旧鴻池邸表屋 町人文化史料館の宮崎家文書紹介――」

その3

中瀬 寿一 (1928−2001)

『大阪春秋 第39号』1984.3より転載

◇禁転載◇

 この鴻池表屋門町人文化史料館所蔵文献で興味深いものを、次に紹介してみることにしよう。それは、なんといっても宮崎家(冨家)文書のなかから発見された稀観書『浪華市奇火災見聞之記』(筆者不明)で、これは一八三七(天保八)年二月一九日におこった大塩事件勃発後の刻々の動きと弥次馬的火事現場見物風景を町人らしい観察眼と上方落語的雰囲気でもっていきいきとえがいた〃その眼でじがに見た大塩事件〃の文学的ルボルタージュ、とでもいうべきもので、臨場感にみちあふれた記録である。

 それにしても、この和漢文学の素養のある名文調の筆者は誰なのであろうか? それを推理する手ががりとして、まず富家(宮崎家)の歴史と大塩事件当時の冨家の状況、そして当主や前当主の人となりなどについてふりかえっておくことにしよう。

 船場で古い歴史を誇る宮崎産業株式会社の社史『金物と共に二百五十年』(一九六六年刊)をみると、始祖弥右衛門が尼崎の今福村を飛びだして、金物商の冨家治兵衛(淡路町、心斎橋筋角)方に奉公し、その後数年をへて別家独立を許され、一七一六(享保元)年、唐物町一丁目(板屋橋筋東北角)において金物販売業(青銅銑鉄鋳造製品・鍋釜類その他)を創業し、〃釜屋〃と称したが、そのはじまりだといわれる。そして二代目の庄兵衡(一七四四=延享一〜一七七六=安永五)の時代から始祖弥右衛門の主家であった〃冨屋〃を名乗り、三代目の弥兵衛(一七六五=明和二〜一七九六=寛政八年)の時代には東堀運送仲間に加入を認められたのか、天明五年(一七八五年)の鑑札が残されている。四代目の弥兵衛(一七八九=寛政一〜一八一三=文化一○年)は「数え年八才で当主となった」ため、八重(三代目の妻で四代目の母)が後見人となったが、弥兵衛が二四才の若さで早死し、そのあと八重(一七七一=明和八〜一八四七〜弘化四年)が五代目弥兵衛を継ぎ、冨屋弥兵衛として「七十六才で没するまでの間、三代目・四代目の遺業を、女手ひとつで切り廻し、大いに業容を高めた、いわば女傑であった」といわれている。この時代に年寄役を仰せつけられ、御伝馬番所から下付された「文政十年亥八月釜東堀船場口運送馬除」という鑑札も残っており、弥衛(八重)はまさに「店の中興の祖をなす人」で、「このおばあさんの遺された遺訓は宮崎家の家憲をなすほどのもの」(同書一六頁)となっている。

 この弥衛(八重)の時代に六代目の弥兵衛(一八○九=文化六年河内の岩田村の中園家に生れる)が養子として迎えられ、弥衛(八重)と同じ一八四七(弘化四)年に三○代の若さでこの世を去っているのである。

 したがって、大塩事件が勃発した一八三七(天保八)年は、隠居の弥衛(八重)が六六才で、六代目の弥兵衛が二八才だったと考えられ、次に紹介しようとする『浪華市奇火災見聞之記』の筆者が実はこの六代目の冨屋弥兵衛(そして文中の「家尊の大人」こそ、義母の弥衛(八重))ではなかったのか、と私は推察されてならないのである。

 このあとに若干ふれておくと、同年(一八四七)、生れたばかりの弥三郎(一八四七〜一九○六年)が七代目をつぎ、明治維新を迎えるが、さいしょは母の屋奈(六代日弥兵衛の妻、〜一八八六年死亡、六八才)が後見をし、実務は代判人の幸助にまかせていたようである。嘉永四(一八五一年の貴重な文書『鍋釜鑢鞴鋳物師仲間 名前帳』をみると、住友一族の和泉屋栄之助(住友友聞の子の友尚と考えられる。所在は長堀茂左衛門町)とともに、〃鍋釜吹〃として、翌年この仲間に加入を認められているので、かなりの〃名門〃ともみられるのである。それがたんなる手工業・家内工業の域にとどまっていたのか、泉屋住友の銅吹精錬業 *9 のようにマニュファクチュア(工場制手工業)の域にまで達していたかは今後の掘りさげた研究にまつほかはないが、鍋釜鑢鞴鋳物師仲間の当時のリストを下にかかげて、大坂周辺におけるこの業界の動きと冨屋の位置をしめしておくことにしよう―。


〔注〕
*9 中瀬「幕藩制下泉屋住友の歴史的研究(上・下)」(『大阪産大学会報』第一一〜一二号)および『大阪産大論集』第五八号所収拙稿参照。


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