Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.9.7修正
2000.2.8

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大塩の乱関係論文集目次


「旧鴻池邸と大塩事件のルポ
『浪 華 市 奇 火 災 見 聞 之 記』

―旧鴻池邸表屋 町人文化史料館の宮崎家文書紹介―」

その4 中瀬 寿一 (1928−2001)

『大阪春秋 第39号』1984.3より転載

◇禁転載◇

 @『浪華市奇火災見聞之記』であるが、それはまず大塩事件勃発(天保八年二月一九日)の朝(八時ごろ)、おそらく南組惣会所(谷町筋農人町)ヘ川浚冥加金を納めに行って、そこで「今暁天満川崎四軒屋敷出火」の内幕をきくという衝撃的な場面からはじまっている。そしてしだいに騒々しくなるなかで、松原町の老友と善南筋を南へ歩き、追手門がら谷町筋へおもむき、川崎の御宮が火事からのがれて渡御するものものしい行列風景をビビッドにえがいている。

 ついで南久宝寺町の堺筋辺までやってきて皆に別れ、おそらく唐物町一丁目のわが家に帰り、近所の人たちと噂して「与力同志の争闘」だから町家までやってくることはあるまいと話すうちに、天満十丁目辺の人家にも放火されたという報が伝わり、屋根へのぼってみると、束北の方角で四、五カ所も猛火のもえたつのがみえ、家内の者に命じて取片付けさせていると、やがて午後二時ごろ今橋筋の鴻池にも石火矢が打ちこまれたとして道行く人でごったがえし、逃げよ逃げよと上を下への大騒ぎとなり、女子供らを島の内の親族のもとへ退去させ、あとは「吾等親子(注・隠居の弥衛(八重)と養子の弥兵衛?)にて持出す」こともできず、「家尊の大人(注・女丈夫の弥衛のこと?)に語らふに唯天命にまかせて打棄おくべしと泰然として」おられるのに逆に励まされ、落ちつきをとりもどすところをたんたんと記している。

 そして「母(注、弥衛(八重)ではなく弥兵衛の実母?)の跡を追いて兄が許(注、島の内松原町周辺?)に至り」そのすさまじさ、恐ろしさに戦国の世を思い、鴨長明の言葉を思いおこすという文学的叙述となっている。さらにまた「我家に帰る」、その途中、反対方向の南をさして逃げていく人びとでごった返し、「老たるを助け、幼を背おひて走」り、「よき服着たる佳人」が裸足で逃げまどう状況などを、実にいきいきとえがいている。

 ようやくわが家に近づき、難波(なにわ)橋筋の十字路まできたとき、町内の下役・左兵衛に出あい、そこで、淡路町堺筋辺で大塩軍と幕府軍とが交戦し、敗れて「悪党もの等」がちりぢりに逃げ去ったこと、もはや恐るるにたらず、もっぱら消防に努めていることなどを、左兵衛が「ほこらかに語」るのをきいて、「我家」(注、唐物町一丁目?)に帰り、「家尊の大人」(注、弥衛(八重)?)の無事を祈っているのである。

「宮崎家系譜 」【略】

 そして火の見に登って眺めやると、船場上町のあらこちに煙がもうもうとたち、「大厦高楼」の焼けおちる音がひびき、「七珍万宝灰燼」となる……そのむざんな有様を漢文詞で詳しく書きつづっている。そして最後に二月二一日の南組惣年寄のお達しを書き記しているのである。

 このようにきわめて興味深く、貴重な、いわば〃大坂船場町人がその眼でみた大塩事任〃のなまのルポ、とでもいうべきもので、しかも次に大塩平八郎らに対して、ほとんどきびしい批判がみられないのがその特徴である。その名文調をそのままかかげることにしよう。ぜひ声をあげて朗読してほしい!。そうすればその雰囲気が約一世紀半の歳月をこえて、じかに伝わってくるであろう―。

「天保八ツのとし如月なかば九日、辰のとき古路、天満川崎に出火ありと聞へ侍れと、いと遠方乃事にしあれハ市中穏にて平常にかわらねハ、此日吾兄の勤仕すなる松原町ハ火消年番てふものにて、なにら商議なす事もあり、かつ、とし毎の川浚冥加金納め侍らむとて惣会所へいたりしに同僚の人々ひそミて咄スを聞バ、今暁天満川崎四軒屋敷出火の頃ハ容易ならざる訳にそあれ、昨夜東御役所にて御組の与力瀬田済之助、小泉渕次郎成ル人、知県相公を刺んとて御居間のほとりへ踏込しに反て司書官某の手にかかり小泉ハ斬られ、瀬田ハ遁たるよし、さてこの人共元の与力大塩氏首領にて今朝しも東西の相公御組屋舗御巡見のきこへあれハ其期をはかりて飛道具もて討ならむ結構のよし、然ルに反忠の者やありけむ御巡見御延引の由にあれハかく刺客を用ひたるよし、またハ瀬田小泉等が私量もてなせし事とも聞へ侍るに、事ならずして壱人は斬(ら)れ壱人ハ遁て首領につげたりしに、さあらハ用意すべしとて大塩自ら宅へ火を放ち、次に向ひなる朝岡が屋舗へ鉄砲を打こミ今に焼立いるよし面談うち、追々騒ぎたち納金(おさめきん)持来る人も曾てあらざれハ今ハ此儘に退かんとわれもいひ人も志かいふにぞ、

 さらばとて松原の老友に従ひ立いて善案すじを南へ歩むうち、往来の人とほくに今なん川崎の御宮御立退谷町筋を渡御なるよしいひもてはやして奔走する者引もきらず、さらば吾もゆきて拝んとしてひたばしりに走りて追手町てふ等を谷町すじへ行て見るによきおりにてけいひつ(警蹕)のこゑ喧しく御紋を朱もてかきたる黒塗の御長持三棹四棹ばかりもやあらむ、いと静やかに舁もてゆくに非常を守る人々多し、続て跡より鳳輦(ほうれん)やふのもの見へたり、これなん神君の御影にもやあらむと、いと高くふし拝ミ侍るに御別当とおぼしく衣の上に甲頭巾てふものを頂き、留守居めきたる人のこれもsたる火事装束して引添居られ、次に神輿一社其外町御組の御役人警固の人々何れもいかめしき出立にていと厳に隊伍を乱さす打せられ、やがて渡御もすミ往来の人もますます騒ぎにぞ、心ならすも夫より南久宝寺町堺筋辺まで来り、茲にて自余の人々に立わかれ、我家に帰れハ近隣の人々とりどりにうわさして、これ与力どうしの争闘なれハよも町家ヘハ来りましなどはなすうち、はや天満拾丁目辺の人家をも雷火炮もて放火するよし聞へて、往来の人束西に馳違ふさまいとあわただしけれハ、こはただ事にあらずとおもヘハ家根へ上り遥に見やれバ東北の方にあた里て凡四五ケ所も猛火の燃立さま見へて西南の風烈しく黒煙り天を掩ひてすさましけれハ、家内の者等に命じてそこよこヽよと片付いるおり、未の時頃今やと橋すじなる鴻池に石火矢打(ち)たりとて遁よ、にけよと周章大方ならす、近隣往来の人狼狽さわぎ、上を下へと鬩(せめぐ)にぞ、愕然として手に手に資材雑具など兼てかり受たるぬりこめに納めんとかたみに励しとり運ぴ、女子供等を島の内の親族(の)許遁しやり、取残せし物などとり出さむと思へども訪ひ来る人の絶てなし、纔に吾等親子にて持出すべくもあらず、如何にやすべきと家尊の大人にかたらふに唯天命にまかせて打棄おくべしと泰然として居られ侍る、されどさすがに物の惜しくてたちつ居つ、手のまひ足の踏所をしらず、かくてあるぺきならねバ母の跡を追ひて兄が許に至りしに、かしこも大丸・辰巳屋などへ只今雷火を持釆るといふて驚き騒しさま、いにしへ戦国の時などかくやあらむと推量して加茂の長明大人の言の葉なと想ひ出されて甚懼し 

 かくて又々我家に帰るに道のほど南をさして追々遁行人のさま、老たるを助け、幼を背おひて走るあれハ、よき服着たる佳人(かじん)のかちはだしにて遁るもあり、そが中をおしにげ、辛ふして漸我家に近き、難波はし筋の十字街迄来りしおり、丁内の下役左兵衛なるものの彳(たたづ)めるにあひて、如何にと問へハ、今のさきかの悪党もの等ハ淡路町堺すじ辺ニて、官府の御捕方に行あひ、暫しいどミあひたるが、いかて御威光の著(しく)明きに(る)叶ふべくもあらず、忽に先手のもの弐三個打倒され、残る奴原蜘の子を散すが如し、皆散々に遁うせ侍る、そか中に頭たちたるゑせもの有、首を刎給ひてや鋒に貫き今のほと御役所に斎し回らせ給ひしよし、さるゆへ火消人足なぞも追々馳つけ専ら消防の手術にかゝりしとぞ聞へ侍れハ、最早烏説ハ止て平常の火事なれハ恐るゝに足らすと、いとほこらかに語るにぞ、

 少しぞ心落いて我家に帰り、家尊の大人の恙なきを祝し、火の見に登りて又もやかなたを眺めやれバ船場上町ともにあちこちに煙たち炎の盛んなる見る見る広こり、大厦高楼の焼落るおとあめつちに響きて轟き、七珍万宝(しつちんばんぽう)灰燼となりたるとの算ふべく遑もあらす、誠に無慙といふも愚なり、終に其夜も火鎮らず暁に至りて益盛んになりもてゆくにぞ、

 廿日も終日焼続て其日酉の頃おひ漸のことにて火鎮りけるにぞ、初て心を案じ、いと嬉しくも思ひ侍るに翌廿一日、惣御年寄衆中仰ごとありつるよしにて頭丁と唱へたる町筋の壱丁目より廻し文もて告来ることのよし、左に記ス、

 悪党之もの共、所持致し候飛道具類ハ不残、御取上ニ相成候間安心致候様、町々ニおひて不洩様夫々迄可被相達候

  二月廿一日     南組 惣年寄

 右之通其町筋へ可相達旨被仰渡候間、急度御町筋へ御達可 被成被下

    酉 二月廿一日


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  <付記>なお本稿については三宅一真・浮田光治・竹内一男氏をはじめ故米谷修先生その他大塩事件研究会の諸氏、さらに龍門文化保存会の上田龍司先生・辰巳郁夫・島野三千穂・村上義光氏らにも大変お世話になった。そのご教示ご高配にあつく感謝したい。また旧鴻池邸表屋内町人文化史料館(毎月第一日曜日一○時〜四時開館)を見学されたい方は、三宅一真氏までお申込みのこと。

        (大阪産業大学 教授)


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