Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.10.17

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「旧鴻池邸と大塩事件のルポ
『浪 華 市 奇 火 災 見 聞 之 記』

―旧鴻池邸表屋 町人文化史料館の宮崎家文書紹介―」

その7

中瀬 寿一 (1928−2001)

『大阪春秋 第40号』1984.7より転載

◇禁転載◇

Gさいごに鋭い諷刺にみちた「今川家侍奸」という名の薬品の引札(広告)が書き写されている。そしてそこには、この薬は昔国々で 調合されたが、慶長・元和(一五九六〜一六二三年)の頃より発禁となり、中絶していた。しかし、ちょうど二〇〇年前に島原で製造され、その後由井・丸橋の両人が肺肝を砕き約味を調えて開店日まできまっていたところ駄目となったが、これは全焼法に疎かったためで、こんどは木筒を用い、火薬を沢山使い、救民や切紫檀(キリシタン)を細末にして加味し製法したので効果がいちじるしく、「上を犯し下を痛(め)る事殷のこ(ご)とし」として、次のような効能があげられているのである。

 すなわち第一に、「産後の婦人逆上する事妙」で、「老人目まひ立くらみ」とくに「大病人は一両日之内に埒明」くというほど効能が大だ、と宣伝にこれ努めているのである。そして禁物のものとしては、おかベ(注・岸和田藩主岡部内膳正?)、山城爪(注・跡部山城守?)、伊賀栗(注・堀伊賀守?)、などがあげられ、本家張本所は「天満川崎、洗心堂中斎」と記さ れているのである。

 これとよく似た、しかし、もう少し簡単なものが大坂斎藤町の医師の記録『浮世の有様』(『日本庶民生活史料集成』第二巻三一書房一九七〇年刊三六九頁)にも書かれているが、いずれもいつ誰によって書かれたのかわからぬうちに庶民の口からロヘ、手から手へと書き写され、みるみる揶揄と諷刺をこめてひろがっていったのではなかろうか。そのため、幕府も容易に弾圧できなかったのであろうと推察されるのである。

 次にその興味あふれる原文をそのままここへかがげておこう―。

今川

家持
奸了円大筒目 七十目

小筒目 十文目

抑此苦為利(くすり)之儀者、往古国々ニ而致調合専ら被行候処、慶長元和之比堅御制禁ニ相成暫中絶仕候処、其後肥前国嶋原表ニおゐて勢方有之候得共元手薄く一揆懸候よし、猶又東国二而由井丸橋之両人肺肝を砕き約味大方相調店開日限等も相定候処弓師之手より筈こほれいたし誅刀ニ而粉薬と相成候右之輩者全焼法ニ疎き故之儀与被存我等此度木筒を尽し火薬夥舗致用意救民を題に遣ひ秘方之一味之上猶又切紫檀を細末にして加味仕倭漢之遺書不拘滅方を旨として勢方仕候儀ニ候得は店開之節ハ神孺仏之三尊円を不恐仁義五常円を致忘却専ら乱妨を用ひ持丸金蔵丹を掠取事自在也尤 上を犯し下を痛る事殷のことし

  功   能

第一産後之婦人逆上する事妙也
小児恐怖或は見失ひ申候
老人目まひ立くらみ足なへる事妙也首限(くびぎり)の家賃は取主の人とつまる事請合
丸焼ケ之者は昼夜妻子と共に愁歎の泪出申べく候小気成人ハ立所ニ病付申へく候
如何程丈夫成人ニ而も又ハ間之有しものも少々はビク付可有之別而大病人ハ一両日之内に埒明可申候

  用 ひ か た

各前車のくつがへるをみつ(づ)に而用ゆ又ハ向ふミフに而もよし

  禁  物

防事 おかべ 山城爪 伊賀粟 尼蛸 桜鯛
 本家張本所  天満川崎
 取罪所     洗心堂中斎 大塩 平八
 摂河在々ニ有之候

 以上を要するに、この『浪華市奇火災見聞之記』を以前に大塩事件研究会の酒井一・安藤重雄教授・故米谷修・西尾治郎平・政野敦子氏らと検討したさいには、史料不足でその筆者を容易に推定できなかったが、その後の私のたびかさなる宮崎家(冨家)文書の具体的調査・研究によって、前述のとおりA以下の部分は写本であるとしても、@の大塩事件のルポルタージュの部分は、六代目の冨屋弥兵衛自身が書いたものである、とみてもほぼまちがいではないと確信するにいたったのである。

 そのことはすでに本文を紹介するなかで、注記したとおり、場所や方向・登場人物などがピッタリー致しているし、いろんな点で、そう判断してさしつかえないと思えるからである。(このほかの貴重な宮崎家文書その他についても、稿をあらためて書く予定なのでご期待を乞う次第である)

(大阪産業大学教授)


 Copyright by 中瀬寿一 Nakase Juichi reserved


「浮世の有様 大塩騒動に関する落首」 その2


「旧鴻池邸と大塩事件のルポ」目次/その6

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ