その6
中瀬 寿一 (1928−2001)
『大阪春秋 第40号』1984.7より転載
◇禁転載◇
悪党事跡伝聞記
逆徒等最初与力丁放火して追\/西南へ出来り天満ばしを渉んとなせしかど、南詰にて公の御人数鉄炮の筒先を揃へ厳重に御備あれハこ叶わじとやおもひけむ、夫
北西へ段\/と興正寺の御堂天満官の社なと乱妨放火におよびしよし、神明仏陀の畏れなく悪逆類ふへくもあらす、不法の到り言語に絶しいと悪むべく事になん、がくて拾丁目すじを南へ天神ばしを渡らむとせしに、早くも西御組山本善之助ぬしの御下知にて橋を半より切落したれハ、詮方なく難波ばしすじへいたりしに、此所をも切落さんず御手当ありて既に人足どもあちこちと斧を入れありつるあり、凶徒等早くも来りてかの車にのせたる大筒を押向たるゆヘ、人足ハ打驚き其儘に遁さりたるよし、此時逆徒今少しおそかりせバよも船場ヘハ渉るまじ残念なる事よと、ある人の語り待る
我等妹婚肉平野町式丁目卯市なるもの、二月十九日あさ天満出火の聞へあれパ同所専念寺にある御位牌取退の事かねて仰のけられありしかバ、いち速も早くも人足引(つ)れ右恵念寺へ馳参り、御大切の品\/など外方へ移しま
いらせ引反しとり残せ御物を取出し奉らむと専念寺へ至りしに、最早爰彼所八鳥悦の音聞へ遁よ\/と呼りこは叶ハじと思ひ、天神橋ハ群集したらんとおもひ難波橋をバ渉りて回らむと歩行しに、道の程にてかの悪徒に正しく両三度も出あひ、そか中に壱度ハひたと行あひ遁るに路なく、止ことを得す行端に蹲踞て目のあたりそか備へを宥しといふ者
先手ことみすじに桐の紋つきたる籏二流土民めきたる男恭しく持居たり、次に大筒をいと砥き石なと持運ひするが如き新き車に乗せ、壱人の大男赤裸にて腹帯を〆綱もて曳来り、そが車の前後を四人あまり黒き衣服を着し裾端高にかゝげ、白き鉢巻し両刀を横たへたる者警固し、跡より宗民と大文字に書付たる籏を人足にもたせ、其辺りに引添たるハ其手の魁首にやあるらむ、光り輝く鍬形の甲を着し白革の物の具して、手にハいと長キきらめきたる鉄鞭を採て差図なす体にて、其者の左右後ともにとり囲たる者十個あまり、皆一様の出立にて黒き衣服を着し、裾をかゝけて脛をあらわし下に綴帷子に平臑当透間もなく着下し、自き鉢巻して手にハ各\/ヽ鑓を携ヘ、両刀を鐺高に着下し、前後左右隊伍を乱さす徐々と歩ミ来る、其人数凡二十人三十人には過ざるべし三月十三日松原町御役所行ありて東御番所へいたりしおり、同丁紀伊国屋市兵衛といへる人よりかり受写し待る、悪徒松本林太夫白状の趣、前書の説とハ大ひに異なり左に記出ス、
二月十九日朝五ツ時前より天満与力丁出火致し夫
木筒大筒抔飛道具を以難波ばし鳩
池善右衛門居宅を打焼火災ニ相成候次第を尋ルニ左之大塩成人如何致候哉評議度々ニ御座候尚委敷義者跡
申上候
大坂勘助嶋天満屋忠兵衛方ニ当時罷在候
松本林太夫
当酉拾四歳
但し此者儀ハ七ケ年已前大塩平八郎方へ寄宿致し罷在候者ニ御座候当月十九日同人并其余の者共市中処々乱妨ニ及候節淡路町堺すじにて先手御人数ニ相乱され候節逃去候事之よし
右林太夫召捕ニ相成同人申立候次第
先 手 木筒壱挺 大筒弐挺 平八郎忰 大塩格之助 大井庄一良 庄司儀左右衛門 右三人共拾匁筒携罷在候よし 中 備 木筒壱挺 惣大将 大塩平八郎 渡辺良左衛門 近藤梶五郎 白井孝右衛門 橋本忠兵衛 茨田軍治 深尾次郎 安田図書 上田幸太郎 但良左衛門外七人ハ大将分のよし 杉山三平 西村利三郎 高橋九右衛門 柏岡源右衛門 同 伝七 志村周次 堀井義三郎 阿部長助 曽我岩助 但中備人数之内立替り後陣も相かり候の由 鉄炮役 猟師金助 後 陣 木筒壱挺 瀬田済之助 平八良中間 喜 八 忠五郎 七 助 右之外二寄集候者其百三拾人斗 武器之類 拾匁筒五挺 但此内弐挺八田衛門太郎成瀬正兵衛方ニて奪取候由 三匁筒七挺斗 版木師 北久宝寺町辺 市田次郎兵衛 同丁五丁目 河内屋喜兵衛 外ニ壱人 江之子嶋丁辺 大工治助 但此治助義居所則御普請方小使金兵衛忰辰蔵が能存在候 平八郎元妻尼 格之助妻 但此もの儀ハ前書橋本忠兵衛娘同人忰之よし 今川弓太郎 但此もの義者去申十二月廿三日出生致候右尼并其余之者 共儀ハ摂州沢上江村上田与右衛門方へ引取居候よし
此書付二月廿六日迄ニ出申候御蔵方御役人より承り聞書也
天保八酉三月三日写
二月廿七日惣会所勘定場ニ而御救懸り丁々固僚借受写取候備書ハ前出林太夫申条と大同小異あり并て茲に摸写候
右之通御座候よし
三月三日農人橋詰町同僚の人よりかり受写し侍る悪徒等の捨文なるといふものあり是者淡路丁堺すし井戸より出たるものにて奉書やうの紙に版にて摺たるよし同所弐丁目良介なる人見て写し侍るよし自らいへり則左に記書ス
上包ハの嚢に入れありしよし
表紙に
天より被下付候
村々小前之もの共江
一、或人のいふ、大塩兼て朽るよしありて此事ハ二月廿三日に起すべく積にてありしに、平山助二郎なるもの反忠せしにより猶与なしがたく俄手配して十九日に発挙せし由、さるゆへ兼而の手筈齬て合期せざりしとぞ
一、二月廿五日の事はやありけむ、吾親族うち平野町卯市方より焼跡の絵図諸免手伝呉よと疎来し侍るにぞ、そが仮宅西下宿請所とかいふめる所の路じ髪結音市なる者の家に至り
しおり、往来の人々いとゞ喧しく今なむ細乗物二挺
公庁へとて舁もて来ぬるとて奔走なすにぞ、何事やらんと思ひ居たりしに遥に跡にて聞ハ、其日伏見駅にて御擒に相成りたる者二個、壱人ハ守口村庄官三左衛門てふ人と壱人ハ大塩召仕ひの若党外に土民大勢持て帰り給ひしよし
一、近在之内摂洲播洲津々浦々江御触有之候又丁内久治郎てふ人より写書かりうけ
左二記ス
此度於大坂不容易成儀相企候大塩格之助父平八郎江致徒党候忰格之助瀬田済之助渡辺良左衛門近藤梶五郎庄司茂左衛門其外名前不知者共行衛不相知船ニ而迯去候程も難斗候間怪敷者より廻船者勿論小船漁船等ニ而他国江便船相頼候共決て備申間敷候如何体にても手当いたし不取迯様其所ニ留置早々大坂奉御所へ訴出候ハゝ為褒美其者へ銀百枚手伝候者へも相応之褒美可差遣条此旨相心得津々浦々江不洩様早々可相触者也
但此触書先格之通浦々無滞相廻し触留
大坂東番所へ可持参候 已上
酉二月廿二日
伊賀 印 摂洲 津々浦々
山城 印 播洲 庄屋
年寄
右之通人相書相添へ御触出候間相達条於村々も右之趣相心得此廻状村下々令請印急キ順達留より可相返者也
酉二月廿四日
池田岩之丞
御役所
人相書(省略)
類焼惣町数 百弐町 家数 三千三百八拾九軒 竈 壱万弐千五百七拾八軒 明借家 千三百六軒 土蔵 四百拾壱ケ所 穴蔵 百三ケ所 納屋 弐百三拾ケ所 寺拾 四ケ寺 道場 弐拾弐ケ所 社 三ケ所 神主社家 拾軒 屋敷弐ケ所但尾州殿 藤堂和泉守様 諸蔵屋敷 五ケ所 用場 弐ケ所 銀座秤座 天満組惣会所 牢屋敷公儀橋弐ケ所 町橋 三ケ所 東本願寺天満掛所興正寺 三町人 尼崎又右衛門 山村与助 惣年寄 井上藤一良 金谷実太郎 今井官之助 中村捨三郎 御破損奉行 鈴木栄助御役宅 御代官 池田岩之丞 跡部山城守組与力廿九軒 同心四拾六軒 堀 伊賀守組与力廿九軒 同心廿六軒 右与力同心 武術楕古場三ケ所 御鉄炮奉行 御手洗伴右衛門組同心屋敷拾軒 御弓奉行 上田五衛 組同心屋敷拾七軒 鈴木次右衛門 御破損奉行 森左十郎 榊原幸右衛門 組御手代屋敷拾軒 御弦指 粕谷遠江居宅 右焼跡 東西七百六拾五間 南北千拾間
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