Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.10.3

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大塩の乱関係論文集目次


「旧鴻池邸と大塩事件のルポ
『浪 華 市 奇 火 災 見 聞 之 記』

―旧鴻池邸表屋 町人文化史料館の宮崎家文書紹介―」

その5

中瀬 寿一 (1928−2001)

『大阪春秋 第40号』1984.7より転載

◇禁転載◇

Aついで、南組惣年寄よりの二月二一日付の「口達」、つまり『乱妨之者も追々召捕』られ、事件も鎮圧されたから、不安なく日用さしつかえのないように売買に精を出せ、町内のすみずみまでこの触れを徹底させよ、というお触れを書き記し、そのほか毎日たびたび出る御触書はいちおう省略し、そのあと御救小屋の設立(天王寺御蔵跡、天満橋の両岸など)に「御上の御仁恵の広大なるを…感悦奉る」として、次のように記しているのである―。

 かくてまだ\/市中の人気穏べしやふ追々御詢ことあり有増左二記書ス

   口 達

去ル十九日市中及乱妨候者有之及大火候ニ付渡世向相休候者も有之由右ニ付米価高直之時節柄類焼之者共別而令難渋候ニ付一身寄方無之者道頓堀芝居へ罷越候ハゝ御救致被遣候段其節惣年寄共被相達追々罷越候者も可有之候処最早及鎮火右乱妨之者も追々召捕猶類焼町々ハ勿論市中組之者廻り方等申付置候間銘々渡世向不危踏日用無差支様売買いたし可申尤米之儀其筋之者へ蔵出等之儀申聞置候間旁右商売筋之ものハ猶更無遺失相心得候様此段早々不洩様可相達事

右之通被仰出候間丁内末々迄不洩様入念可被相触候以上

              南組
 酉二月廿一日      惣年寄

右之外毎日度々御触書有之候へ共略之かくの如く追\/御詢書もて御諭しあり、その後天王寺御蔵跡てふ所と天満橋の両岸に御救小屋を建させられ三月四日より右道頓堀芝居ニある難渋人おひ\/御小屋へ御移しありて、惣御年寄方ハ勿論丁々の年寄衆のうちにも右世話掛りを仰付られ日々御小家へ出勤被致竊に御世話ありけるよし、されハ市中もおひ\/穏きかく騒動の中程\/御心労在せられ候折から、末々の者迄御撫育の御配慮行渡らせられたる事、偏に御上の御仁恵の広大なるを万民欣々然としていと有かたく思ひ待りて、恐多くも感悦奉る事にそありける

Bさらに少し字体が違うが、次に興味あふれる「悪党事跡伝聞記」を記し、そのなかで「我等妹婿内平野町弐丁目卯市なるもの」が、事件当日天満の専念寺にある位牌を取りにいって事件にあい、道端にうずくまっていたときの恐ろしかった状況や、大塩軍の行列装束などを詳しくえがき、その首領らしい人物が「光り輝く鍬形の甲を着し、白革の物の具して手にハッと長キきらめきたる鉄鞭を採て差図なす」状況をも浮彫りにしつつ、「前後左右隊伍を乱さす徐々と歩ミ来る、其人放凡二十人三十人に過ぎるべし」と書いているのが注目される。

Cそれにつづいて三月一三日に松原町御役所行があって、東御役所へいったおり、同町の紀伊国屋市兵衛から借りて写したという書付が記され、D「天保八酉三月三日写」として、二月二七日に惣会所の勘定場でお救いがかりの町の同僚より借りうけ写しとったという大塩軍ののぼりやその陣立てをえがいている。幕府の弾圧のきびしいなかで、このように出所を明記して書き写しているのも、この文章の大きな特徴のひとつである。

Eこのあと三月三日に農人橋詰町の同僚より借りうけ写したという大塩の〃激文〃が記され、それはそもそも淡路町堺筋の井戸より発見されたもので、それを同町二丁目の良介という人が写しとったものだと書かれ、その事件への興味と関心、熱心さには驚かされるほどである。

Fついで大塩は、最初二月二三日にたちあがる予定のところ、密告者があらわれたため、一九日に変更のやむなきにいたり手筈がととのわなかったという話や、親類の卯市が焼跡の「絵図諸免手伝」ってほしいというので二月二五日にその仮宅におもむいたときの話、さらに摂州播州の津々浦々ヘのお触れの写し、人相書、さらに〃大塩焼け〃の被害状況などを町内の久治郎より借りうけ、写しとったことなどを克明に記しているのである。

 それにしても筆者と推定される船場町人金物商)の冨屋弥兵衛という人物が、なぜかくも大塩事件につよい興味と関心をもち、異常な熟意をもってみずからの『見聞之記』を書いたほか、御触書その他のいろんな文書と同事件の真相を究明しようとしたのであろノか。彼の町人としての思想形成や人間成長のうえでどんな役割をはたしたのであろうか?疑問は次々とおこり、興味はつきないが、これらはぜひ今後の研究課題としたい。次にB〜Fの部分を紹介することにしよう。


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「御触」(乱発生後)その1


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