Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.3.19

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大塩の乱関係論文集目次


「『鷹見泉石日記』にみる大塩事件像

―大坂城代家老のえがいた天保八年二月〜三月の状況―」

その1

中瀬寿一・村上義光・中瀬紀美子

大塩研究 第20・21合併号』1986.3 より転載

◇禁転載◇

1 はじめに ―〃大塩事件殉難者一五○回忌〃によせて―

 一九八六(昭和六一年(旧暦)三月二七日は、大塩平八郎と養子格之助らの”一五○回忌”にあたる。そしてきたる一九八七年は、明治維新へののろしとなった、世直しの義挙〃大塩事件勃発=満一五○周年〃を迎える。

 こうしたなかで、わが大塩事件研究会では、公開講演会や連続講座の開催(すでに朝日カルチュア・センターにおける一〜三月開講をはじめ)、殉難者の記念碑・墓などの建立、事件参加者のご子孫や史跡の調査、全国的な史料発掘と膨大な『大塩事件関係史料集』の刊行など多彩な企画が目下進められつつあるが、この十年間にわたる筆者らの内外の史料調査(イギリス・ソ連をはじめ八戸・酒田・水沢・仙台・水戸・古河・前橋・秩父・町田・東京・箱根・韮山・浜松・田原・柏崎・飯田・津・山田・松阪・吉野・大和五条・京都・安曇川・和歌山・大阪・八鹿・篠山・洲本・徳島・脇町・多度津・高知・高梁・尾道・山口・博多・大牟田・豊後日田・長崎・平戸・天草その他)によつて掘りおこされてきた膨大な文献史料のうち、まず本稿では、共同研究としてこの機会に大塩事件当時大坂城代家老であつた〃蘭学者〃の『鷹見泉石日記』とくに第十六卷を中心に、”大塩狩り”のなまなましい状況と大坂での打ちこわしの頻発、そして〃大塩ブーム〃の幅広いひろがり、さらに〃大塩父子自爆のときの模様などを発表し、以下続稿でひきつづき連載していくことによって研究の発展のための〃共有財産〃とし、満一五○年によせて論議が大きく展開されていく一里塚にしたい、と考える。

 この点、従来名著としてのほまれの高かった岡本良一氏の『大塩平八郎』(創元社、一九七五年刊)ですらも、鷹見泉石について原典史料を調査することなく、次のようにとらえられていたにすぎないのは、まことに残念といわなければならない―。

平八郎逮捕の総指揮者であった鷹見泉石さえも、彼の日記に<「京・大阪(ママ)あたり下々(しもじも)にても、大塩様のようにまで世のためを思し召し候儀、ありがたしと申す者八分通りの由」(吉沢「崋山の周囲と大塩事件」)>と書かねばならなかった……」(同書、一五九頁傍点筆者)と。

 これだけでは、単純かつ皮相な鷹見泉石像で、大きな検討を要する、といわなければならないであろう。

 しかも泉石研究で有名な実証史家の伊東多三郎氏が郷里長岡にもどり、精魂こもる労作『国学者の道』(野島出版社、一九七一年刊)を出版され、渡辺崋山と生田万のめぐりあいをいきいきとえがきつつ、

「上州の旅から六年ほど過ぎた天保八年……崋山は前から文通している間柄の大坂の大塩平八郎が窮民を救うため暴動を起したことを聞いた……」(同書七頁)

と書かれているのを、柏崎の調査の折、同地の図書館で読み、さっそく同氏に熱烈なおたよりをしたためつつ、ご病気のためお目にかかれないまま今日にいたってしまっている。そのことが、あらためて惜しまれる今日このごろである。


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「『鷹見泉石日記』にみる大塩事件像」目次/その2

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