中瀬寿一
『大塩研究 第14号』1982.11 より転載
前稿「大塩事件と泉屋住友の〃家事改革〃(上・下)」(『大塩研究』第五号、第九号、第十号)「大塩事件と特権的門閥町人層の衝撃」(『大阪産業大学論集』第五三号)および「大塩事件の衝撃と住友・三井・鴻池の〃家政改革〃」(『経営史学会第一七回大会報告集』八一年一一月)その他の一連の研究において、私は、大塩事件による大坂船場焼打ちと特権的大門閥町人層の深刻な衝撃を明らかにした。そして「其恐懼シキ事不可云」「今日之大変子細未分明、然国初以来凶変実不可言」と『天保日記』の筆者(加島屋某といわれる)に書かせ、三井をして「誠に絶言語前代未聞之大変にて、難尽筆紙」「全体大塩何故、右之騒動被致候事哉相分不申、偖々不怪儀出来」(『稿本三井家史料−小石川家第六代三井高益』六五〜七〇頁)と叫ばせ、泉屋住友の〃家宰〃鷹藁源兵衛をして、「一昨年之大変幸ひ北方角にて事済候故無故障候得共、万一南辺にて箇様の変事有之候ハ、忽可及大事…常々其備立置不申てハ、其時ニ臨ミ後悔仕候ても不及」「今改革セサレバ主家ノ存亡二関シ黙止シ難」し(天保一〇年一一月一三日付意見書、住友家史『垂裕明鑑』巻之十九)と〃家事改革〃意見書を書かせた―その衝撃の大きさと深刻な危機感を掘りさげた。さらにそこから幕政改革なり、藩政改革と、かなりつながりのある大門閥町人層の〃家政改革〃(いわば当時なりの〃財閥転向〃=幕府一辺倒から面従腹背へ)の試行錯誤の過程が始まることを明らかにし、天保改革や「開国」をへて、やがて明治維新に展開していく、歴史のダイナ ミズムの一歩一歩をさぐろうとした。
そのなかで、水野越前守と泉屋住友との結びつきの深さを文政年間にさかのぼって年表史的に考察しておいたが、史実に忠実なノン・フィクション作家として定評のある松本清張氏も、歴史的に興味深い作品『天保図録』のなかで、次のようにいきいきとえがいているのが注目され
る―。
「忠邦が裕福な唐津から浜松に転封になったのは、おのれの立身出世の欲心からだったが、その代り、浜松藩の財政は忽ち枯渇した。」そこで「家臣には早速借知(滅俸)を申付け」た。「のみならず、老中になってからも当時老中筆頭で勢威を張っていた水野出羽守忠成への音物(いんもつ)や、美濃守忠篤への贈物で金がいくらあっても足りない。それまで浜松から江戸藩邸に送られた金は年七千両であったが、国許からしばしば訴えてくる財政窮乏は、借財に借財を重ねる報告ばかりだったから忠邦は一応、江戸送りの七千両を五千両に下げさせた。しかし、これだけではとても交際ができないというので、何事も〃忠邦昇進のため〃に藩財政の困難は辛抱するように申付け、さらに二千両の交際費増額を申付けている。結局一両も減額なし」であった。そのうえ「忠邦くらいの立場になると、同列衆への進物・見舞・そのほかの入用は年々嵩むばかりで、権門筋との往復が頻繁で、それらの入用だけでも一日五、六両から百両になることがある。諸家への贈答も、隔月には少々気張って贈ったり。或いは先方から金、品物が到来するときは、その返礼に相当な金高も都合しなければならない。また老中ともなれば、お取次そのほかの役々ヘの心づけもばかにはならない。」「忠邦が浜松へ江戸送りの費用の増額を申付けたのはこのような理由からだが、国許のほうもそうそう忠邦の勝手な要求をきいていられない状態であった。しかし、忠邦はおのれの出世のために少々無理をしても都合しろと頭から命令的である。そのため家老が大坂の商人の間に頭を下げて金の調達を頼みまわる」始末であった。しかし「どこも浜松藩の内情を知っているからいい顔をしない。これまでの貸金が相当に上って一向に返済してもらっていないのだ。」「水野家は浜松のほかに古くから大津に飛地をもっていた。ここから上がる米を抵当にして大坂の商人から金を借りていた………」(角川文庫版、上巻一一九〜一二〇頁)と。
Copyright by 中瀬寿一 reserved