Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.4

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩事件・天保改革と 住友の〃家政改革〃

―〃家宰〃鷹藁源兵衛を中心に―」

その2

中瀬寿一

大塩研究 第14号』1982.11 より転載

◇禁転載◇

一 はじめに ―松本清張『天保図録』ヘの若干の問題提起― (2)

 しかし、さすがの松本清張氏も、史料発掘上の制約から、ここでは「大坂の商人から金を借りていた」と書かれているだけで、泉屋住友や鴻池との密接な結びつきについては、残念ながら全然ふれられていない(住友との関係は、『大塩研究』第九〜十号所収の拙稿、表1、3参照)。

 さらにここで、浜松藩が当時鴻池善右衛門家からどれほど借入れていたかを、森泰博氏(「鴻池算用帳からみた大名貸」『(関西学院大学)商学論究』八二年二月刊所収)および竹内一男氏らの注目すべき研究によってみると、水野越前守への「貸有銀」残高は一八三七(天保八)年正月の六二貫八〇〇匁から大塩事件後に一時漸減するが(一八三九年正月には一六貫六〇〇匁)、天保改革とともに逆に激増し、一八四二(同一三)年六〇貫、一八四四(同一五)年には八八貫へと増大をとげている。間部下総守への賃付残高も一八三七年正月の六四貫七六〇匁から大坂城代就任を機に翌年一五〇貫九二〇匁に激増し、一八四四年正月には三〇六貫一二〇匁へといちじるしくふえている。

 さらに跡部山城守・堀伊賀守など両町奉行への貸有銀など、一八三七(天保八)年正月現在ですでに五四二貫七二二匁におよんでいる。しかも鴻池本家の大名貸残高合計は、大塩事件による焼打ち以後もあいかわらずふえ、一八三八(天保九)年正月には前年正月の三万二八〇一貫(貸有銀中七三・一%を占める)から三万四八〇七貫(同じく七五・一%)ヘ、そして翌一八三九年正月には三万九一〇五貫(同八二・五%ヘと増大、その癒着ぶり、寄生的性格はますます深まっている。

 こうして大塩事件によりやっつけられた側の実態が最近顕著に明らかになりつつあり、これを契機にすぐれた史家でもある松本清張氏が今後の再検討なり補足・修正されることを心から期待したい。そうすれば『天保図録』自体、もっとほりの深いものとなるであろうし、松本氏自身『大塩事件』についてももっと書かずにおれない強い衝動におそわれるにちがいないのである。

 他方、ソ連邦科学アカデミー東洋学研究所のポドパロヴァ(P・И・Подпадова Подпарова?)教授から『朝日新聞』一九八〇年一一月二四日付の「〃大塩事件〃財閥を生む!?)を興味深くよんだとして、目下編纂中の『日本近世文書集』に大塩事件関係史料や、天保期の三井・住友などの〃家憲〃改正、〃家政改革〃の諸史料、そして農村におけるマニュファクチュアの発展状況、一八六七年の江戸・大坂の打ちこわしや〃ええじやないか〃運動の史料等入用なので、ぜひ送ってほしいと依頼があり一九八一年五月二〇日付書簡)、国際的に注目を集めつつあること、そして私たちの責任が重大であることを銘記しつつ研究をすすめたいと思う。本稿では、とくに水野忠邦の天保改革下における泉屋住友の〃家政改革〃の動向と特質を〃家宰〃の鷹藁源兵衛を中心に明らかにし、水野失脚後の動きについても論及したいと思う。


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中瀬寿一「大塩事件と泉屋住友の〃家事改革〃


「大塩事件・天保改革と住友の〃家政改革〃」目次/その1/その3

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