中瀬寿一
『大塩研究 第14号』1982.11 より転載
こうして数千人(すでに別子・立川合併の一七四九=寛延二年当時四九〇〇人に達していた)におよぶ銅山労働者に対して、まず「一旦休業」=首切りを脅迫的に宣告したうえで、賃金の切下げ、米価その他のひきあげ、餅米・大豆・小豆・酒などの貸渡しの廃止、褒美酒の半滅など一〇カ条におよぶ〃合理化案〃をしめし、「当御山復古の基業を開候様」心がけさせ、収奪の一層の強化によって、強行的な資本の蓄積をはかろうとしたのであった。したがって「質素倹約」の強制は、たんに封建的反動というだけではなく、同時に資本の強行的・前期的蓄積と当時なりの〃合理化〃”近代化”のカムフラージュにほかならなかった、とすらいえるのである。この点の評価が従来欠如していた、と考えられる。
さらに万太郎は、口頭で次のとおり申渡している―。
一、上座吹方炭方等、内々にて世帯通と相唱へ候者有之、此通ハ不残当十一月限差留候事
一、炭有物ロ内欠無之哉、早々取調候事
一、諸役所役頭限の了簡を以、別段ニ季心付差遣候由今般改革致候上ハ、先一山相続見留相備候迄、差留候事
支配人治右衛門へ申渡
此間中追々及示談候通の次第ニ付、是非休山不致してハ後ニ相続六ケ敷被存候間、一旦休山と申渡候間、支配人内宅等之儀ハ差含居候儀有之候間、帰坂之上、佐右衛門迄内意申聞可置候間、早々引払手当可致、尤以下の者共ハ支配人より引払之義可申渡候
元締役頭へ申渡
此間中申談候一条ニ付、政右衛門・次右衛門存寄書被差出、尚又元締并役頭よりも、被差出候書面、夫々熟読致候、在山中追々可申談候得共、有姿儘にてハ相続難出来存候間、休山ニ決定致し、御預所始銅座御役所へも相届候積ニ付、差当り在勤之者共無拠続合の者当地に於て世話致居候者共も有之哉承居候間、右等其儘に致置候てハ不宜候ニ付、急々当地引払可申、此段承知致し其手当可有之候(傍点、いずれも中瀬)