Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.11

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「大塩事件・天保改革と 住友の〃家政改革〃

―〃家宰〃鷹藁源兵衛を中心に―」

その3

中瀬寿一

大塩研究 第14号』1982.11 より転載

◇禁転載◇

二、天保改革と泉屋住友の〃改革〃―「 倹約法」と鷹藁源兵衛の「意見書」一八四一年)― (1)

 徳川幕府が天保改革の布令を出し、いわば〃反革命が革命の遺産相続人〃としての役割を一面で果しだした一八四一(天保一二)年、しかも五月一五日直後に、はやくも鉱山・銅吹製錬マニュファクチュア商業高利貸資本としての泉屋住友では、さっそくこれに呼応して当主友聞の息子万太郎(友視(ともみ))を別子銅山におもむかせ、次のとおり「倹約法」を申渡し、「男女衣服・髪飾・履物に至迄倹約質素」、いわば今日の〃合理化〃を強制しているのが注目される―。

「倹約之儀八毎々申渡候得共、年月を経自ら奢増長し、稼人の分限を不弁、衣服并持扱の品、建具類に至迄、奢ケ間敷罷成、法外なる事共相聞ヘ、不持の事に候、元来当銅山ハ稼而巳の場所に付、風俗ハ随分麁末にて相済侯処、不慎の段不得其意候、猶又此度従御公儀様御改革被仰出、既に江戸・京・大坂へ厳敷御触も有之、別して男女衣服、髪飾、履物に至迄、倹約質素相成候趣ハ、追々承知可致筈、并ニ松山御役所より倹約質素可相守候様披仰渡、且大坂本家よりも厳敷申来候間、山中一統堅相守、聊心得違無之様、平日持扱の品に至る迄、入念相慎可申候」(住友家史『垂裕明鑑』巻之十九)

 その迅速さはおどろくほどで、(江戸からすでに情報をえていたかもしれない)、大塩事件と天保改革、さらに泉屋住友の〃家政改革〃との間に、なんらかの内的関連があったのではないか、と考えられるほどである。

 また天保改革開始直後の同年一二月には、泉屋住友は、幕府に対して「銅直(値)増額」を願い出て、「銅直違五百九拾九貫百六拾九匁六分、米直違百七拾三貫六拾匁余、ニ□合七百七拾二貫二百二拾九匁二分余の分、年々損銀ニ相成、他借ヲ以テ償ヒ来り候得共、此上ハ術計も尽キ果テ必至困難ニ付、御買上銅百斤二付百三拾九匁四分八厘ノ処二百二拾二匁ニ御買上被成下度旨」を歎願している。だが願書がさしもどされるや、「御聞届ナキ上ハ、己ムヲ得ス、休山ヨリ外方策モ之無キト迄」ひらきなおって再度申しでるまでになっている(これも幕府に拒否されているが)。


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