中瀬寿一
『大塩研究 第14号』1982.11 より転載
そうしたなかでこの年、鷹藁源兵衛が再び「意見書」を提出し、次のような具体案をさししめしている―。
一、近年銅山年々損銀相嵩、御勘定不相立、追々御融通六ケ敷相成、実に心痛仕居候、就てハ御子様方、追々御成長被遊、往々御仕分御物入も不少、是等の御備も不被為在侯てハ難相成候事
一、江戸中橋店、去申年改革仕法相立、当時にてハ随分ーケ年千両位の御益ハ差登候義出来可申候間、従同所貢金千両宛、年々差登候様仕度候事
一、浅草店、近年打続不時之損銀有之候得共、下地三千両宛差登候に付、只今にても御益の内より、一ケ年千両位差登候義出来可申候間、是又年々千両為差登候様仕度候事
右両店より、年々二千両宛貢金為差登、夫を以本家非常の備ニ仕置候得ハ、往々御仕分等の儀も出来可申候
一、予州銅山勘定、年々過分損銀相立候ハゝ、同支配人勘弁を以、仕法相立候ハゝ、御損も相立間敷、全不取締故と相覚候、依て向後銅代銀、手当銀丈を以、銅山諸入用相賄、其上にて少々にても御益相残り候工夫可仕様、急度被仰付度候事
一、去戊年、西御丸御造営之砌、吹銅十万斤献納相成、全御家の規模と乍申、其儀にてハ何の詮も無御座候間、右簾を以、御勘定所へ直願金壱萬両拝借仕候得ハ御益にも可相成、且ハ一度直願御取用相成候ハゝ、永々其例を以、直願出来候故、御家格にも可相成と奉存候間、右願書御差出相成度候事
これによれば、(1)当主友聞の子女(『大阪産業大学学会 報』第一二号所収拙稿の住友家系図参照、友視、友善、友尚、ゑい、ネヰらのほか、庶子だけでも一六人におよぶという)が「追々御成長被遊、往々御仕分御物入も不少、是等の御備」も必要で、(2)江戸中橋店よりの「貢金年千両宛年々差登候様仕度…」、浅草店も「御益の内より一ケ年千両位、差登侯義出来可申」、両店よりの「年々二千両宛貢金」をもって「本家非常の備」にするよう、資本蓄積策を提案し、(3)別子・立川銅山勘定も取締りを強化して、「告後、銅山銀・手当銀丈を以、銅山諸入用相賄、其上にて少々にても御益相残り候工夫」をするよう説いている。そして他方、幕府対策としては、(4)先年江戸城西丸 御造営のさい、吹銅一〇万斤を献納したにもかかわらず、「何の詮も無御座候間、右簾を以、御勘定所へ直願」し、「金壱万両拝借仕候得ハ御益にも可相成」と、このときとばかりに幕府からの一万両借入れをアドバイスしているのである。これをみても〃家宰〃の鷹藁源兵衛が、仲々大した役者で、特権的豪商=鉱山銅吹マニュとしての術策にもたけ、幕府を相手にはやくも〃経営戦略〃を打ちだそうとしていることが如実にうかがえるであろう。
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