中瀬寿一
『大塩研究 第14号』1982.11 より転載
こうした方針で、一八四二(天保一三)年にも「予州 銅山稼方困難ニ付歎願書」を提出し、(1)「御定数四拾万 斤ニ減少被仰付、以上の過銅出精仕候時ハ、其分地売銅 に被仰付度候事」、(2)これまでの御手当のはかに「銀三 百貫目宛御救」下されたいこと、(3)「御銅代百斤に付百 八拾匁」にせめても値上げしてほしいことを訴え、また 銅山炭仕入方につき、銅代銀引当として金五〇〇〇両拝 34 借したい旨を銅座役所に出願している。さらに居なおっ て「予州銅山稼方自然及休山」となった場合、一山残ら ず引払わねばならず、その手当銀を精々用意しておく必 要があるが、「近年身上不如意」で、「中々手当難出来、 依て銀五百貫目当年内に拝借」したいことまで、むしろ 脅迫的に申入れている。そればかりか松山藩に対して「 銅山稼方困難ニ付金壱万両拝借」を出願し、断わられる と翌一八四一二年二月にも再願し、源兵衛の方針どおりく りかえし閉山の危機のPRに努めている。そして一方で は、幕未・維新期にかけてあいかわらず大名貸をつづけ ているのである(本誌第九号所収の表1参照)。