Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.11.8

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩事件・天保改革と 住友の〃家政改革〃

―〃家宰〃鷹藁源兵衛を中心に―」

その6

中瀬寿一

大塩研究 第14号』1982.11 より転載

◇禁転載◇

三、豊後町の分家改革と〃お家騒動〃
  −源兵衛を中心に(一八四二−四三年)−

 大塩事件以降、こうして矢つぎばやに〃家政改革〃に着手してきたが(本誌第九−一〇号の拙稿参照)、その一方で、幕府や松山藩にくりかえし別子・立川銅山への保護と銅買上値段の増額・助成を訴えてきた泉屋住友は、こんどは大塩事件で焼かれた豊後町の分家改革にいよいよのりだした。すなわち同じく一八四二(天保一三)年八月、源兵衛に対して「支配役ヲ免シ、日勤改革掛ヲ申付ケ」、九月には「豊後町ノ代判改革掛」一に任命したのであった。なにしろ「当主不行状ニテ店方取締モ相立タス、迚モ相続難出来ニ付、休店ノ外策ハ無之候得共、銅座・掛屋・引替方御用モ之レアリ、依テ甚次郎名前相退ケ、本家ノ出店ト致シ、同人娘さち名前ニ改メ速ニ退隠セシムルニ一決」(『垂裕明鑑』巻之二十)した。そもそも豊後町の分家といえば、かの有名な入江友俊の家のことで、友俊の庶子の友直の養子として、友聞の子の友善(甚次郎)があとをついでいたのであるが、〃大塩焼け〃で焼けだされ、源兵衛の意見書によると、当時この分家=甚次郎店の借財は約八万両、一二月までに返済期間の迫る分が約一四〇〇貫目、利払いだけでも一九〇貫目にまでのぼっていた。したがって「豊後町取引両替屋炭安炭彦銭清銭儀等悉過振」となり、このため手形振出先もなくなり、たちまち商売にさしつかえ、「此分ハ手始ニ一旦差戻不申候ては難成」、まずおよそ一〇〇貫目ほど本家が至急立替えることが必要であった。

 たとえ改革取締りをおこなっても「急ニハ世評人気も立直」らず、それまで本家より「御入銀或ハ御印形相願」う必要があり、また「是迄の姿にてハ本家同様の豪家風にて勘定不宜」、「何分八万両の大借、其上年々三千両程勘定不足」で、さしずめ「年々二千両不足丈にても埋合」せするよう、源兵衛は本家に要請したのであった。

 また「無利足にて夥敷損銀不益」のため、「帳切後、御番所御掛屋御免」を提案した。そして甚次郎名儀「帳切後御本家へ御引取」りのうえ、「御遣銀も本家より御渡相成」りたい旨申入れるとともに、「豊後町改革仕法二付てハ、甚次郎様一切御越無之様」と念を押した。つまり〃家宰〃〃番頭政治〃による、家政改革と再建をめざしたのであった。源兵衛は、こうして町内帳切りをすませ(さち名儀に変更)、代判をひきうけ、御番所へ掛屋御免、取替銀下渡し方を願いでる一方、店方諸役を入れかえ、帳面仕法や、勘定仕立方を改革し、手数を省き、そして町方取引をはじめた。やがて「漸次人気立直り、取引先八拾軒バカリモ出来タ」のであった(同『垂裕明鑑』巻之二十)。一方、甚次郎退隠のあと、松山藩掛屋についても、源兵衛が代判をつとめ、吉田藩御用達は本 家がひきうけた。

 ところが、その翌一八四三(天保一四)年冬、名儀人さちが死亡し、一八四四(天保一五=弘化一)年一月、盛六(友聞の孫の友訓)に名儀変更され(松山藩御用も同様)、これ以後源兵衛の意見がもはやおこなわれないようになり、源兵衛は再三辞退願を出し、ついに六月には改革取締方を免除されるにいたった。そのうえ八月には、分家の泉屋理兵衛(天満砂原屋敷)が本家を相手どり豊後町の旧宅の「売代残銀八拾六貫五百七拾二匁受取方ニ付」訴訟をおこすにいたった。こうして泉屋住友一族はまたまた本家・分家をあげての訴訟争いに不名誉にもまきこまれていくこととなった(以前のケースについては、拙稿「幕藩体制下における泉屋住友の歴史的研究(上・下)」『大阪産業大学学会報」第一一号、第一二号参照)。


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