Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.12.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


「浪花の狂刃 大塩中斎の事蹟」
その1

中山蕗峰

『文武仁侠大和錦』東洋興立教育会出版部 1917 所収

◇禁転載◇

一 知 遇(1)

管理人註
  

                      いま  窮鳥懐に入れば猟師も之を捕へずと唐土の教は未だしき、我が朝の志士 じん/\       たす 仁人は弱きを扶け強きを挫き、身を殺して仁を成すを以て本性とす。茲に                        さげす 徳川時代の末季に当り、常は贅六々々と天下の人に蔑まれたる大阪町人の 中より身を起して、憤然弱者の為めに身を捨てゝ強者と戦ひたる与力大塩 中斎の如きは、まこと武士にも劣らぬ男の中の男一匹、侠名今に伝へて其    たゝ               そ の徳を称へざる者はない。抑も此の中斎は阿波国美馬郡岩倉村の産れ、寛 政六年といふに真鍋市郎なるものゝ二男として産れたのであるが、幼少の             なにがし 時大阪に出で、親戚の塩田何某が家に養はれ、後ち川崎村に住める天満組 の与力大塩平八郎の養子となり、其の名を襲いで平八郎と称し、之も世襲               をとこ の与力の職を拝したのが、彼が侠を売るの初めとなったのである。   う ど  独活の大木は切つて家の材とするに足らねど、山椒は小粒でもピリヽと 辛い、平八郎身は矮小、威風堂々として人に迫るの資格には欠けてゐるが、 気骨稜々眼光爛々、機才殊に俊敏にして恰も剃刀の如く、其の熱血鉄腸は                触るゝ者を悉く焼き尽さずには措かぬの概がある。幼より文武の道を好み、 日夜励みて書を読み又武を講じ、十四五歳の時には已に剣術槍術の一派の   きは 奥を究むることが出来た。併し彼は七歳にして養父母を喪ひ、養祖父の手 に育てられてゐたので、実の親は尚更、養ひ親の愛をも満足に受くること      わづか が出来ず、纔に養祖父の愛を以て満足しなければならなかつたのであるか ら、彼は常に愛の飢渇に人知れず寂寞の涙を味うてゐた。此の彼が愛の不 満足は、後に彼を駆つて天下の蒼生を愛し、弱者の為めに一命を投げ出す の熱血漢たらしめたのである。彼が十七歳の時、たま/\妓楼に上つて豪  りんり                 あやま 飲淋漓、遂に流連して帰るを忘るゝの邪路に過つて陥つたのも、其の一つ の理由は愛の飢渇から来たものである。されば友人何某、之を切腹して修   ゆるがせ 養の忽にすべからざることを説くや、彼は翻然と悔悟して養祖父に謝し、 更に乞うて江戸に上り、時の鴻儒林祭酒の門に入つて昌平黌に学び、傍ら てうせき 朝夕に武術も励みて、全然生れ変つた新らしい人となつた。階級思想を脱   あた                   する能はざる当時、与力の家に是だけの学問が要るかと人々は驚きの眼を 以て平八郎を見てゐたが、平八郎は職業上の必要から学問をするのではな く、其の志はもつと深い所にあつたので、尚進んで学問の蘊奥を究めたい と思つてゐたが、祖父の病軽からずと聞いて急いで大阪に帰り、日夜に病 床に侍して手篤き看護を為した。併し祖父の病は容易に恢復の見込がなか つたので、平八郎遂に其の職を相続して与力となつた、是れ実に平八郎二 十二歳の弱年であつた。







幸田成友
『大塩平八郎』 
その7


































蒼生
多くの人々、
庶民



淋漓
水・血・汗な
どのあふれし
たたるさま


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