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くゞ
与力といへば卑賤の役、奉行所の門を両刀手挟さんで潜ることは出来ぬ。
けれども平八郎は役の高下などは眼はくれず、与力の任務の決して軽から
ぬものであることを知つて、兼て胸中に蓄へてゐた社会士風の改善を図る
には、最も都合よき位置に自分があることを思うて、時の町奉行坂部能登
おの
守に己が意見を開陳し、町家の子弟にまで文武の道を奨励して、纔に三年
の間に一般の士風を改むることを得た。青二才何するものぞと人々から嘲
笑的に観られた平八郎が、意外の事績を挙げたので、是より彼の名は漸く
大阪市中に重んぜられ、後に東町奉行に任ぜられたる高井山城守は、平八
郎を信認すること最も深く、遂に之を抜擢して吟味役とし、盗賊追捕の事
つかさど
を司らしむるのみならず、重要の市政には必ず参与せしめ、奉行の最高顧
問役として、刀を携へて、即ち士格を以て奉行の門を潜ることを得せしめ
たので、平八郎は此の異数の抜擢に非常に感激し、其の熱腸赤誠を傾けて、
山城守の為には水火の中も辞せざるの覚悟を為した。太平の世にあつては、
しかばね さら
君の馬前に死骸を曝すことは出来ずとも、せめては世の中を改善して奉行
をの
の成績を挙げ、かねて己が抱負経綸を行うて、之を以て山城守の知遇に報
いんと決心し、日夜心胆を砕いて善政を布くことに努めたので、山城守の
うち か
管下は見るが中に其の風を改め、従来賄賂私謁を以て撹き乱されたる積弊
は悉く除去せられて、是より山城守の名は益々揚り、平八郎の徳もますま
す現はれて、誰しも与力平八郎を呼び捨てにするものなく、まして一般の
市民は大塩様、中斎様と、必ず様をつけて呼んだものである。
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坂部能登守
大坂東町奉行
在籍の期間
寛政4.1.18〜
寛政7.6.28
幸田成友
『大塩平八郎』
その14
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