平八郎滅びては残党亦云ふに足らず、大方は上の手を労せずして平いだ
かばね
が、幕府は平八郎を憎むこと頗る深く、死せる平八郎親子の骸を取り出し
たくけい
て之を磔刑に処し、庄司茂右衛門等の一味同心十数人をも、塩詰にしたる
死骸を諸人の見せしめに市中を引廻し、之をも磔刑にし、美吉屋五郎兵衛
は、平八郎父子を匿ひたるの故を以て獄門に処せられた。あはれ平八郎、
此の乱に大阪市中の商店を焼くこと一万八千に及び、其の惨害は実に甚し
わざはひ かも
かつた。是れ平八郎の侠気、却つて禍を醸したもので、其の成敗の跡を辿
いづ
れば、平八郎に対する恩怨孰れが大なるかを定め難いのであるが、而かも
当時に於て、生前平八郎を「大塩様」「中斎様」と呼んだ難波の市民は、
平八郎の死後に於ても誰一人之を怨むものなきのみか、益々其の人物の宏
たゝ や
偉なるを仰ぎ、其徳を称へて已まない。殊に平八郎が纔に四五百の徒を狩
つて乱を起したるに対して、幕府が近国諸藩の援を乞うて、大兵を出動せ
しめたといふ一事は、著しく徳川氏の鼎の軽重を問はしめたもので、後に
みくび
勤王の志士が、幕府の勢力を見縊つて、憤然四方に起つたのも、一つは此
の大塩の乱に鑑みたところが尠くないのである。此点から云へば、大塩平
八郎は実に勤王志士の先駆をなしたものと云へよう。況んや其の衷心、常
おも
に君家を念ふの心に燃えてゐたりしに於てや。
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