Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.12.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その149

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  八 末路 (1)
 改 訂 版


兇徒捕縛の
厳命





























風説頻々

十九日夜城代は各藩蔵屋敷に平八郎父子・済之助・良左衛門・梶 五郎・義左衛門の人相書を遣し、当地並に御領内に於て右の者共 見合次第召捕相成度、時宜により打拾てらるゝも可なり、早々御 吟味の上、疑しき者は都て大阪町奉行所に差出されたく、人違苦 しからずと申渡した、それから彼等が或は水路を取つて逃亡する 恐がないとも限らぬとあつて、廿一日夕急に命を下して川口出入 の船舶に点検を加へ、船にて両川口を塞ぎ、夜間は一切往来を許 さざることゝし、又摂播二国の津々浦々に触廻し、廻船小船又は 漁船を雇ひ、他国に渡らんとする不審の者あらば、一切其命に応 ぜず、何とか手段を運らして本人を抑留し、其旨直ちに届出づる に於ては、過分の褒美を与ふべしといひ、水陸共草を分つて捜索 に従事した、之が為大塩党中捕縛せらるゝ者・自訴する者・自殺 する者等続々として出でたが、平八郎父子の行衛は三月になつて も未だ知れぬ、町奉行より乱暴の者共追々召捕たるにつき安心せ よとの口達はあつても、市民は誰一人枕を高くして寝る者は無い、            ビク\/ 口達を出した町奉行すら惴々もので、毎夜玉造口与力に泊番とし て来るやう切に依頼してゐる始末だ、二十日払暁玉造方面が不穏 だといふので、俄に守備を増したが何事もなく、さうかうする中 に又もや暴徒守口町に屯集すとの風説伝り、城代は京橋門外の尼 崎藩兵に、出張の上実否を正すべしと命じ、跡部山城守も亦前夜 宿直の玉造口与力八田又兵衛高橋佐左衛門及同心十二人(後より 十人を増す)を藩兵の響導たらしめ、彼等は相伴つて守口町に赴 いたが賊徒の蔭もない、廿二日八ッ時頃唯今平八郎船にて天満橋 へ到着といふ飛報に、城中一同騒出したが、真先に之を追手の玄 関へ注進したは東町奉行所の用人武善之助で、実は三拾石船が天 満橋に衝突した為、奉行所から人足を出し、彼是混雑してゐるの を彼が見誤つたのであつた、又平八郎が摩耶山に隠れたとか、甲 山に楯籠つたとかいふ風説もあつて、其度毎に与力同心の出役と なつたが何の獲物もない、廿三日京都の所司代松平伊豆守は大塩 の残党丹波に隠ると聞き、亀山・淀・郡山の三藩並びに京都町奉 行梶野土佐守に出兵を命じたのは軽率も亦甚しし言はざるを得ぬ、 廿六日に幕府が郡山・姫路・尼崎・篠山・岸和田五藩に大阪出兵 を命じたは、遠距離の為阪地の形勢が知れなかつた為であらうが、 伊豆守の方は弁護の仕様が無い、京畿の人心恟々といふこと丈は これで能く解る。

 十九日夜城代は各藩蔵屋敷に平八郎父子・済之助・良左衛門・ 梶五郎・義左衛門の人相書を配布し、当地並びに御領内において 右の者共見合次第召捕相成度、時宜により打拾てらるるも可なり、 早々御吟味の上、疑はしき者はすべて大阪町奉行所に差出された く、人違苦しからずと申渡した。それから彼等が或は水路を取つ て逃亡する恐がないとも限らぬとあつて、廿一日夕急に命を下し て川口出入の船舶に点検を加へ、船にて両川口を塞ぎ、夜間は一 切往来を許さざることとし、また摂播二国の津々浦々に触廻し、 廻船小船又は漁船を雇ひ、他国に渡らんとする不審の者あらば、 一切命に応ずべからず、何とか手段を運らして本人を抑留し、そ の旨直ちに届出づるにおいては、過分の褒美を与ふべしといひ、 水陸共草を分つて捜索に従事した。之が為大塩党中捕縛せらるる 者・自訴する者・自殺する者等続々として出でたが、平八郎父子 の行衛は皆目知れぬ。町奉行より乱暴の者共追々召捕たるにつき 安心せよとの口達はあつても、市民は誰一人枕を高くして寝る者                ビク\/ は無い、口達を出した町奉行すら惴々もので、毎夜玉造口与力に 泊番として来るやう切に依頼してゐる始末だ。二十日払暁玉造方 面が不穏だといふので、俄に守備を増したが何事もなく、さうか うする中に暴徒守口町に屯集すとの風説伝はり、城代は京橋門外 の尼崎藩兵に、出張の上実否を正すべしと命じ、跡部山城守も亦 前夜宿直の玉造口与力八田又兵衛高橋佐左衛門及び同心十二人 (後より十人を増す)を藩兵の響導たらしめ、彼等は相伴つて守 口町に赴いたが賊徒の蔭もない。廿二日八ッ時頃唯今平八郎船に て天満橋へ到着といふ飛報に、城中一同騒出したが、真先に之を 追手の玄関へ注進したは東町奉行所の用人武善之助で、実は三拾 石船が天満橋に衝突した為、奉行所から人足を出し、彼是混雑し てゐるのを彼が見誤つたのであつた。その外平八郎が摩耶山に隠 れたとか、甲山に楯籠つたとかいふ風説もあつて、その都度与力 同心の出役となつたが、何の獲物もない。廿三日京都の所司代松 平伊豆守は大塩の残党丹波に隠ると聞き、亀山・淀・郡山の三藩 並びに京都町奉行梶野土佐守に出兵を命じ、廿六日幕府は郡山・ 姫路・尼崎・篠山・岸和田五藩に大阪出兵を命じた。後者は何分 遠距離とて阪地の形勢が知れなかつた為といへようが、伊豆守の 方は弁護の仕様が無い。京畿の人心恟々といふこと丈はこれで能 く解る。


「御触」(乱発生後)その1
「浮世の有様 巻之七」 長浜屋八之助が見聞の記 その2


「大塩平八郎」目次4/ その148/その150

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