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いでたち
平八郎其の日の扮装は、鍬形の兜を戴き、黒羅紗の陣羽織を著て自ら陣
よところ
頭に立ち、五百の兵を四分して四所より竝び進ましめ、予め作りおきたる
天照大神宮、八幡大菩薩の旗を各々押立てゝ先づ徳川家康の廟所建国寺に
至り、八百目の大砲を打ちかけて寺を破壊し、之を手初めとして附近の民
あほ
家に火を放ちたれば、折からの北風之を煽つて、紅蓮の焔見る/\東西に
ひろが とざ
拡り南に延び、天満橋の以南は黒雲天を鎖して日を仰ぐ能はず、老若逃げ
惑うて阿鼻叫喚の一大修羅場と化した。平八郎の兵は、一隊は此の間に船
場に至り、一隊は平野町に出で、豪商鴻池、三井、島村等の邸宅に闖入し、
いまし こぼ
家人を警めて他へ散じたる後家を毀ち倉を開き、金穀を路上に撒布して窮
たいかん うんげい
民の拾ふに任せた。窮民に取つては是れ実に大旱の雲霓、平八郎を神とも
さ みだ
仏とも仰ぎ慕うたが、然はれ、大阪市中之が為に其の秩序を紊し、無辜の
小民亦家を焼かれ財を灰燼に帰して逃げ惑ひ泣き狂ひ、火勢の炎々たると
相俟つて惨憺の光景いふべき辞を知らず、斯かる所へ大阪城代土井大炊頭、
大兵を率ゐて出動すると共に、近国諸藩に命を伝へて援兵を募り、山城守
の兵を合して四方より平八郎を攻め立てたれば、さしも当るものなかりし
平八郎の兵も、衆寡敵せずして苦戦に陥り、淡路町二丁目に来りし頃には、
わづか きぜん
五百の兵残るもの纔に八十に過ぎず、平八郎喟然として天を仰いで浩歎し、
諸兵に向つて云ふ「諸子、死を決して尚ほ戦はんとするも、今や城代多数
きた
の兵を率ゐ来るに及んで、遂に衆寡敵する能はず、われ等毫も再生を望ま
ずと雖も、斯くて跡部山城守が兵の手に罹りて死せんはいと口惜しければ、
乞ふ之より各々散じて時を忍び、機を俟つて再び起たん。」と。即ち衆を
予め散じ、己れは股肱数人と共に舟に乗つて其地を去り、天保山沖に出でゝ
ひそか
形勢を窺ひ、夜陰密に帰り来つて、阿波座堀油掛町の美吉屋五郎兵衛の隠
宅に潜伏せしが、幕吏遂に之を知つて美吉屋の家を囲み、平八郎を捕へん
としたので、平八郎今は為すべき道も尽きたりと観念し、近寄り来る捕吏
なげう
を叱して其の間に自ら爆裂弾を家の中央に抛ちたれば、何かは以て堪るべ
き、轟然として天地も崩れんばかりの音と共に、家は屋根を貫き柱を砕き、
猛火発して黒煙渦巻き、忽ち平八郎親子の体を呑み尽したのであるが、平
八郎、格之助は、其の黒煙の中に包まれ乍ら、伝来の宝刀を抜いて親子相
とき
刺し、炎々たる火焔の中に自ら歿して相果てた。是れ時天保八年弥生二十
六日の事である。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その159
大旱の雲霓
日照り続きに待ち
望む、雨の前触れ
である雲や虹。
ひどく待ち焦がれ
ている物事のたと
え、
「孟子」梁恵王下
より
雲霓は雲と虹
喟然
ため息をつくさま
浩歎
大いになげくこと
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