文政の末、平八郎は其の与力の職を養子格之助に嗣がしめ、其身は隠居
し、更らに一新路に向て頭角を出さんと欲す、即ち王陽明の学を以て世
に立んとするもの、是れなり、平八郎、茲に一の学塾を開き、名づけて
『洗心洞学堂』と云ふ、文政八年。学堂内東西の両掲示を為す、既にし
て文政十一年十一月、王陽明を洗心洞学堂に祭る、実に平八郎の日夜斎
戒沐浴して尊崇する所のものは王陽明なり、朱子の学は温良なり、陽明
の学は活気あり、故に之を善用すれば、即ち熊沢蕃山と為るべく、
若し或は之を悪用すれば、則ち大塩平八郎と為る、豈に其れ慎まざ
るべけんや、当時日本の碩儒頼山陽の如き朋友として之れに往来するこ
と屡々なり、故に後ち天保三年五月、山陽の京師に死するや、平八郎乃
ち京師に赴き、以て墓前に慟哭せしと云ふ、亦以て友情、其信義のある
所を見るべし、平八郎終生の著作若干あり、而して其一生、満腔の心血
を注ぎて成るものは、『洗心洞箚記』二冊、『同附録』一冊にして、天
保四年四月、始めて其刻成り、越えて天保六年四月、之を世に公にす、
天保七年、東行伊勢大廟に謁し、同書一部を神庫に納め、既にして富嶽
に登りて、又其一部を嶽上の石室に蔵す、如何に平八郎が此書に重きを
置けるかを見るべし、
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