Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.3.16

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎伝」

その3

西村富次郎(獲麟野史) 弘文館 1897

『日本偉人伝』所収

◇禁転載◇

   管理人註
   

文政の末、平八郎は其の与力の職を養子格之助に嗣がしめ、其身は隠居 し、更らに一新路に向て頭角を出さんと欲す、即ち王陽明の学を以て世 に立んとするもの、是れなり、平八郎、茲に一の学塾を開き、名づけて 『洗心洞学堂』と云ふ、文政八年。学堂内東西の両掲示を為す、既にし て文政十一年十一月、王陽明を洗心洞学堂に祭る、実に平八郎の日夜斎 戒沐浴して尊崇する所のものは王陽明なり、朱子の学は温良なり、陽明 の学は活気あり、故に之を善用すれば、即ち熊沢蕃山と為るべく、 若し或は之を悪用すれば、則ち大塩平八郎と為る、豈に其れ慎まざ るべけんや、当時日本の碩儒頼山陽の如き朋友として之れに往来するこ と屡々なり、故に後ち天保三年五月、山陽の京師に死するや、平八郎乃 ち京師に赴き、以て墓前に慟哭せしと云ふ、亦以て友情、其信義のある 所を見るべし、平八郎終生の著作若干あり、而して其一生、満腔の心血 を注ぎて成るものは、『洗心洞箚記』二冊、『同附録』一冊にして、天 保四年四月、始めて其刻成り、越えて天保六年四月、之を世に公にす、 天保七年、東行伊勢大廟に謁し、同書一部を神庫に納め、既にして富嶽 に登りて、又其一部を嶽上の石室に蔵す、如何に平八郎が此書に重きを 置けるかを見るべし、

   


「大塩平八郎伝」目次/その2/その4

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ